[2005-5-10]
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伊能大図

[2005-04-29]


今年1月に『アメリカ伊能大図 里帰りフロア展 in 幕張メッセ』というイベントがあった。 幕張メッセは モーターショーなども行われる 巨大な展示会スペースだが, いくつかある 展示ホールの一つ, イベントホールのだだっ広い床面に,214枚の地図がびっしりと並べられた。

伊能忠敬が日本全国を徒歩で測量し“伊能大図”にまとめたのは,今から200年前のことである。 17年かけた 前後10回に渡る測量で 日本列島全部の地図を完成させた。 佐渡はもちろん 種子島や伊豆諸島などの離島も含まれている。
すべて徒歩で測量していて 陸地の輪郭線を正確に描くことを目標にしているため, 内陸部は 歩いた街道筋が描かれているだけだが, 本州・四国・九州・北海道の海岸線の形は 現代見る地図そのままに表現されている。 天体測量を併用しているので, 細部の微妙な点はとにかく, 全体としての精度は かなり正確なものだという。

伊能忠敬は, 214面の伊能大図の下図を描くところまで自ら行ったが,製図が完成して 幕府に提出されたのは 1821年のことで, 伊能の死後3年経っていた。
しかしその後 幕府はこの地図を積極的に活用した様子はなく, 蔵の奥深くにしまい込まれたまま 明治になるまで日の目を見ることはなかった。 また 部分的に写しとられた写本も,一部の大名家に退蔵されたまま 利用されなかった。 もっぱら“鑑賞用”だったとしか考えようがない。
唯一の例外は 皮肉なことに,禁を破って国外に持ち出されそうになった“シーボルト事件”である。 シーボルトは 1829年の帰国に際して, 国禁とされた伊能図を密かに持ち出そうとして 発覚。 地図は幕府に没収された上, 国外追放。地図を渡した 高橋景保は獄死, その他関係者も全員が厳しく処罰された。しかし シーボルトは 別に写本を用意していて, そちらの方は 無事にヨーロッパに持ち出すことに成功している。 それほどの危険を侵してまで 国外に持ち出そうとしたのは, 日本の詳細な地図は それだけの価値があったのである。
伊能図の価値の高さは 外国人のみが評価していたと考えられる。
その後 明治に入ってから 陸軍測量部が日本全国の地図を作製する際に 下図として使われ, ようやく有効に利用された。

大図の原本は,明治に入って間もなく(1873=明治6年) 皇居の火災によりすべて焼失し, その後 伊能家から再提出した副本(控えの写本)も 関東大震災によって失われ, あとは 各大名家など 数カ所に残された断片的な写本が60数枚残るだけとなり, この状態が長い間続いていた。 ところが ごく最近になって(2001),アメリカの議会図書館に 148枚の大図の写本があることが 発見され,欠図は 4枚だけとなった。 更に昨年(2004)5月には,残る4枚の大図が海上保安庁で発見され, これで 214枚全部がそろい 日本全体が完全に一枚の地図につながった。

現在すべての大図はデジタル化され,伊能忠敬から 7代目に当る 伊能洋氏が中心となって 手で彩色され,今回のイベントに展示された。伊能大図は縮尺3万6千分の1で, 一枚が畳一枚ぐらいの大きさがあるため,全部を並べて見るには 大きな体育館ぐらいの 面積が必要である。
「フロア展」の地図は 透明なシートで覆われていて,上を靴のまま歩きまわることができる。
奇跡的に全葉が揃った伊能大図の上に座り込んで,細かく書き込まれた地名を 虫眼鏡で覗き込んでいる人の姿もあり,印象的な展示会だった。


伊能忠敬は 1745年に 現在の千葉県九十九里町で生まれ, 後に 佐原の伊能家に養子に入り 長年 名主職を勤めた。49歳で隠居し 幕府天文方の高橋至時に弟子入りして 江戸で 天文学・暦学を学んだ。
当時 地球の大きさが暦学上の問題となっていたため, 経度1度の南北距離を実測したいという 願望が 測量に足を踏み入れるきっかけとなったとされる。
大規模な測量旅行は, 当初は 幕府が必要な資金の ごく一部を負担するだけで, 第1次・第2次調査は 資金の大部分は 忠敬が個人的に負担していた。 隠居したとはいえ, 佐原の伊能家がバックにあったため 自己資金はなんとか工面できたのだろう。
しかし 第3次調査以降は 幕府直轄事業となり, 幕府からの資金の補助率は ほぼ100%になっている。

10次-17年にわたる測量のルートは およそ次のようである。当然 すべて徒歩で, 歩いた距離は 4000万歩 といわれる。小柄な伊能忠敬の歩幅は 65cm だったと伝えられているので, 2600万キロを歩き通したことになる。
井上やすしの小説「四千万歩の男」は, 第1次・第2次測量を書いている。

【訂正】 伊能忠敬の歩幅は 69cm の間違いでした。 従って "2600万キロ" は "2800万キロ" と書くべきでしたが, "4000万歩" そのものが アバウトな話なので, 誤差の範囲ですね。
【再度訂正】 "2600万キロ" とか "2800万キロ" というのは 大間違い。2800万メートル つまり 2.8万キロ が正解でした。失礼しました。(05-5-8記)

第1次1800年奥州街道から津軽半島経由で 蝦夷地南東岸
第2次1801三浦半島, 伊豆半島, 房総半島から下北半島へ
第3次1802会津, 山形, 秋田, 青森, 新潟, 長野, 高崎
第4次1803東海道から知多半島, 渥美半島, 岐阜, 敦賀, 能登半島, 佐渡島, 長岡, 高崎
第5次1805-06東海道から桑名, 紀伊半島を回って大阪, 京都,
  岡山, 広島, 下関, 松江, 隠岐島, 鳥取, 敦賀, 大阪
第6次1808京都, 大阪, 淡路島, 鳴門, 徳島から四国一周, 高松, 大阪, 奈良
第7次1809-11中山道を経て高崎, 諏訪, 岐阜, 小倉で九州に入り 延岡,
  大隅半島, 薩摩半島, 天草, 熊本, 大分
第8次1811-14大山街道を経て富士山周辺。小倉から 九州内陸部を経て南下して鹿児島。
  北上して小倉, 博多, 佐賀, 島原半島, 佐世保。
  平戸島, 壱岐, 対馬, 五島列島, 長崎。
  山口, 津山, 姫路, 宮津, 木曽, 信濃
第9次1815下田, 伊豆七島
第10次1815-16江戸府内

伊能忠敬に関連する記念碑の類は, 全国を踏破した伊能らしく 日本各地に 多数建てられている。 その中 銅像は 佐倉市の諏訪公園と 東京・江東区の富岡八幡宮の2か所にある。 いずれも 測量の旅姿の伊能である。
また 記念碑などは, さすがに“全国区”の伊能忠敬らしく, 日本全国に多数あるようだが, 主なものを以下に列挙する。

伊能忠敬最東端到達記念柱北海道・別海町
伊能忠敬測量遺功碑東京・港区・芝公園
伊能忠敬測量200年記念碑(九州測量の起点)北九州市小倉
伊能忠敬北海道最初の測量地碑北海道函館市
伊能忠敬測量の地記念大分県別府市
伊能忠敬記念碑徳島県鳴門市
伊能忠敬測量記念碑岩手県男鹿半島黒崎
伊能測量記念碑鹿児島県屋久島
伊能忠敬宿泊地観測地碑千葉県横芝町
伊能忠敬記念碑静岡県三ヶ日町
伊能忠敬宿泊所の屋敷跡碑大分市
伊能忠敬出生の地碑千葉県九十九里町
伊能忠敬住居跡記念碑東京・江東区(深川黒江町)


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