発祥の地bannar
九十九里地引網発祥の地
 [くじゅうくりじびきあみはっしょうのち]


場所
千葉県長生郡白子町剃金
コメント
JR外房線の茂原駅から北東に約10km。
南白亀川の河口近く,九十九里自然公園内の,剃金海水浴場の入口付近に 波頭をかたどったモニュメントと,その下部に添えられた発祥碑が建っている。またこのモニュメントに隣接して 2つの説明板が建っている。一つは白子町文化財審議会委員の一人が個人で寄贈したもの,もう一つは白子町教育委員会の設置したものである。

九十九里は 長さ60kmにわたって弧状に続く砂浜。気候は温暖で,黒潮と親潮の出合うところで 沿海には魚類が多く集まる。江戸時代にはイワシの漁場として繁栄した。
地引網は,中央に魚を集める袋網があり,その左右をつなぐ両翼の網から構成され,船で沖合に張りまわした引綱によって,陸上に引き揚げて漁穫する漁法。

九十九里地方に地引網漁法がもたらされたのは,下記の碑文に書かれているように,紀州の漁師が悪天候のために漂着し,紀州で行われていた地引網を伝えたことに始まったとされる。これによって この地のイワシ漁は画期的に効率化され,九十九里一帯に定着していった。
当時 漁獲されたイワシは食用となったほか,干鰯(ほしか)に加工され日本各地へ肥料として出荷され,綿や藍の栽培,みかんやぶどう等の果樹の肥料として珍重された。
江戸時代中期(18世紀初め)には この地域の漁民は数万人にも達し,全国一だったとされる。しかし,明治中期に開発された揚繰網漁法は地引網を圧倒し,急速に衰退した。
現在は,九十九里の各地で 観光地引網がおこなわれている。

撮影日
2010年3月 (写真提供 T.H.さん)
碑文
九十九里地引網発祥の地
            題字 千葉県知事 沼田 武
 九十九里浜は北は刑部岬,南は太東アに亘る延長約六十六キロメートルに及ぶ典型的な砂浜海岸で,渺茫たる自然景観の美しさは天下に冠たるものがある。
 ここは江戸時代海内無双の一大地引網漁場で,その起源は一般的に戦国時代末といわれている。ちなみに江戸後期の稿本と推定される「江浦干鰯問屋仲買根元由来記」によると,関東における鰯漁のはじまりは宝治年中(1247〜48)のころ「紀州之漁師西之宮久助と申すもの,難風に而吹流,九十九里浦に漂着仕」り,同地の剃金村(現,白子町剃金)において小地引網をもって鰯漁をはじめて行ったとある。
 一方,明治十六年(1883)の稿本である「房総水産図誌」には「九十九里浦地曳網漁ノ起原ハ,土人伝フル処及其旧記等ニ由レバ,今顧ルコト三百六拾有余年前,後奈良帝ノ弘治元乙卯年(筆者注,弘治元年<1555>)紀州ノ人西宮久助ナルモノ難風ノ為メ九十九里南白亀浦(南白亀浦ハ長柄郡ニアリ云々)ニ漂着シ,同処剃金邨長嶋某ノ家ニ寄寓シ(長嶋ハ丹後ト称セシトゾ),某本国ナル熊野浦ニ使用スル処ノ網器ニ倣ヒテ曳網ヲ製ス,之レ九十九里地曳網ノ創始ニシテ)(後略)とある
 両書の記載をみると,西宮久助の漂着年代に大きな差異が認められる。しかしその記載の骨子は共通しており,九十九里地引網の起源は紀州の人西宮久助なる者難風のため南白亀浦に漂着し,剃金村の長嶋某(長嶋丹後)の家に寄寓し,手厚い看護をうけた。久助はその謝意のしるしとして,出生地の熊野浦に使用せる地引網の製法を伝えた。これが九十九里の地引網漁業の発祥であるという。
 ここに平成の世をことほぎ,広く識者の意見を徴し,由緒ある九十九里地引網発祥の地たるわが白子町の地に記念碑を建立し,その縁由を後世に永く伝えようとするものである。
      平成三年十一月吉日
            撰文  牧野誠一
                川村 優

(説明板1)
    九十九里地引網
        発祥の地について
 みなさん,わたしたちの九十九里浜は自然の美しさとともに,かつては日本第一のいわし漁場でありました。この漁獲に使われた網を地引網といい,いまから数百年前(745年前・437年前とする二つの文献あり),紀州(いまの和歌山県)の漁師西宮久助がこの地に伝えました。
 久助は遭難して,この地(白子町剃金)に漂着,地元の長嶋丹後の家で,手厚い看護をうけました。感激した久助はその御礼に,進んだ紀州の地引網漁法を丹後に伝え,やがてこの漁法がいまの白子町から九十九里一円にひろまりました
 みなさん,この地は永久に忘れることのできない大切なところです。みんなでこの碑のもつ意味を考え,九十九里浜の誇る伝統を守っていきましょう。
      寄贈
          白子町文化財審議会委員
              牧野誠一

(説明板2)
      白子町指定文化財
    史跡 九十九里地引網発祥の地記念碑
 わが九十九里浜は,かつて江戸時代には,本邦最大のいわし漁場として大いに繁栄,わが郷土もその中核をかたちづくってきた。
 ここから積み出される干鰯は,まさしく日本の綿花栽培,藍の栽培をはじめ,みかん,ぶどう類の果樹類の最高級の肥料ともてはやされた。もちろん干鰯は,米作や一般畑作用の高級肥料であったこともいうまでもない。
 記録によれば(ちなみに「房総水産図誌」の記載等参照)によれば,いまから四百数十年前,紀州(現,和歌山県)の漁師西宮久助なる者,遭難にあい,わが剃金浦に漂着,地元の長嶋丹後の手厚い加護をうけた。
 感激した久助は故郷に帰るにあたり,謝意にしるしとして,先進的な熊野のいわし漁業法を丹後に伝授したといわれる。
 かくて地引網によるいわし漁業は,九十九里一円に伝播し,未曽有のいわし漁獲高をほこり,日本一のいわし漁場の名をほしいままにした。
 以上のごとく,わが剃金浦の地は日本産業史上不滅の地引網による九十九里いわし漁業発祥の地である。
 去る平成三年,このゆかりの地に発祥記念碑が建立された。
          平成四年四月一日 指定
                白子町教育委員会


 
九十九里地引網発祥の地碑
 九十九里地引網発祥の地 碑
同・説明板1
 同・説明板1
同・説明板2
 同・説明板