発祥の地bannar
日本砲兵揺籃の地
 [にほんほうへいようらんのち]


場所
千葉県佐倉市下志津原
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京成電鉄本線のユーカリが丘駅から 南に1.8km。
南志津小学校の250m程南の畑の中に, 高さ3mぐらいの背の高い石碑と, 「砲兵演習場跡」という 佐倉市が設置した説明板が建っている。

ここは 江戸時代末期に 佐倉藩が洋式砲術の演習を行っていた場所で, 明治になってから 陸軍砲兵射的学校が 創立された。射場として 幅300m, 南北に3kmの長さの土手を築き, 南(四街道方面)に向けて射撃訓練を行った。
その後 明治後期になって, 四街道に鉄道(総武線)を敷設する計画が持ち上がったため, 四街道に向かって大砲を発射することが困難となり, 1897(明治30)年に 砲兵射撃学校を 四街道に移して, 大砲の砲撃訓練は 北(この地附近)に向けて行われるようになった。
太平洋戦争後, この周辺の軍用地はほとんどが農地に転用された。

「揺籃の地」碑の隣に建つ説明板には 次のように書かれている。

    砲兵演習場跡

 佐倉藩は幕末に洋式砲術高島流を取入れ,下志 津原のこの地で演習や試打を行った。
 明治六年(1873)政府が教師として招聘したフ ランスのルホン砲兵大尉は,藩士大筑尚志が築い たという射垜(土手)を増築し南北三千メートル 幅三百メートルの射的場とした。
 同十九年陸軍砲兵射的学校が創立され,附近に は料理屋,旅館などの街がつくられ,当時,下志 津原一丁目と呼んだという。
 その後,明治三十年に,四街道へ射的学校は移 された。
 昭和四十年,同校関係者有志により,この碑は 建てられたものである。

   昭和五十七年三月三日
                  佐倉市

撮影日
2007年12月
碑文
日本砲兵揺籃の地

佐倉堀田藩は砲術を在来の武衛流から洋式の高島秋帆流に切り替えるにあたりその丁打場を従来の大田原(旧根郷村)から下志津原のこの地に移した
時に天保十三年(1842)である 明治初年に残っていた射垜は同藩士大筑尚志(後の第一代砲兵監陸軍中将)が築設したという
明治六年(1873)政府は教師として招聘したフランスのルホン砲兵大尉をしてこれを南北三千米幅三百米の射的場となし初めて砲術を伝習させた
同十三年 明治天皇の行幸を仰ぎ砲兵の天覧射撃あり大臣参議愈扈従したと伝えられる
同十九年春陸軍砲兵射的学校はここに創立せられ同三十一年四街道に移るまで日本砲兵発達の源泉となった
由緒ある移籍の消滅せんことを惜しみ碑を建ててその由来を記するものである
      昭和四十年(1965)四月二日
                  佐倉市教育委員会
                  陸軍野戦砲兵学校遺跡保存有志一同
                  土地提供者 下志津原開拓農業協同組合
                  謹書 須藤健夫

日本砲兵揺籃の地碑 「砲兵演習場跡」
日本砲兵揺籃の地 碑
「砲兵演習場跡」