発祥の地bannar
習志野騎兵旅団発祥の地
 [ならしのきへいりょだんはっしょうのち]


場所
千葉県習志野市大久保4丁目
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京成電鉄の京成大久保駅から 北東に800mほど。八幡公園の中央付近に 自然石に刻まれた 発祥の地碑と, その脇に 由来を記した碑がある。

この公園は もと騎兵連隊の司令部だった所で, 現在も 公園入口には レンガ作りの門柱が そのままの形で残されている。(写真右)
発祥碑の隣には, 習志野市が設置した「騎兵連隊・旅団司令部跡」の説明板が建っている。

    騎兵連隊・旅団司令部跡
 明治初頭より旧陸軍の演習が行われていた小金原は,同6年 (1873年)明治天皇行幸の際に,「習志野原」と命名されてから,周辺 に軍隊が急速に創設され,それにともない拡張されてきました。
 明治32年,日本陸軍初の快速兵団として騎兵連隊が習志野原 に創設され,同34年には大久保に転営して,現在の東邦,日本 大学付近に第13・14連隊からなる第1旅団と,東邦中学校・高 校附近に第15・16連隊から成る第2旅団がおかれました。さら に,八幡公園・習志野郵便局の地に旅団司令部がおかれました。
 日露戦争(明治37〜38年)の折には,両旅団が派遣され ましたが,満州事変(昭和6年)・支那事変(同12年)には第1旅 団が派遣されました。この頃より軍隊の機械化がすすみ,騎兵連隊 は装甲部隊に再編制されていきました。
 第2次世界大戦後,連隊跡は学校に,旅団司令部本部の建物は郵 便局になり,八幡公園にあった司令部の 講堂には,私立大久保保育園が開設され ました。この保育園は,昭和24年 (1949年)津田沼町に移管されて,本市 第1号の公立保育所となり,昭和40年, 泉町3丁目に移転しました。
    昭和56年12月
        習志野市教育委員会

撮影日
2004年5月
碑文
習志野騎兵旅団発祥の地
      昭和五十一年四月建之

     碑誌
騎兵第一 第二旅団は 明治三十四年十二月この地に創設せら
れ 日本陸軍最初の快速兵団として発祥した 第一旅団に属す
る第十三 第十四連隊 第二旅団に属する第十五 第十六連隊
は堂々と甍を連ね 大久保の地は一転して一大衛戍地となった
 この地習志野の名は 明治六年 明治天皇行幸して親しく軍
隊の調練を天覧せられし際 将来に亙り軍が操練に励むべき地
として特に命名せられたるもの いま騎兵旅団の設置を見るに
及び まさにその聖旨に副い名実相伴うに至ったのである
明治三十七八年日露戦争に当り 両旅団は共に満州に出征 よ
く機動性を発揮し 果敢善戦赫々たる戦績を収めて凱旋した
尓来約三千の将兵は陣馬一体となり 日夜習志野原頭を馳駆し
て練武を重ね 輝く騎兵精神を培った 一面の草原は生気に満
ち 連隊旅団を挙げての乗馬襲撃など正に壮観そのものであっ
た かくて習志野騎兵旅団は陸軍の華と謳われ 地域住民の親
愛と協力の下に 軍民一致輝かしい一時代を経過した
満州事変の勃発するや 昭和七年第一旅団はこれに出動して各
地に転戦し 引続きそのまま満州ハイラルに駐屯 さらに支那
事変に活躍して偉功を樹てた この間第二旅団は終始この地に
衛戍して訓練を続け また各種部隊の編成補充に任じた 時代
の変遷に伴い騎兵部隊は逐次機械化の途を辿るに至り 第二旅
団に昭和十六年 第一旅団は同十七年それぞれ戦車部隊に改編
せられ ここに騎兵旅団の歴史は終りを告げたのである 発祥
以来この地で訓練された壮丁は関東全域及び山梨長野両県下か
ら選抜せられ その数延数万に及び 軍馬は北海道及び東北地
方から補充せられ延一万余頭に達した この中には幾多の尊い
戦没犠牲となった人馬があることを銘記しなければならない
大東亜戦争後 習志野の地はその様相を一変し 広茫としてい
た習志野原も周辺の地域とともにその殆んどが都市化せられ旧
兵営もその姿を変えるに至ったが この地が騎兵旅団と共に歩
んだ四十年に 習志野発展史上特に意義深い一時代を画したも
のというべきである その由緒を記念するため 関係者有志と
百余名の思いをこめてこの碑は建てられた
希くは 習志野の地が永く栄光ある発展を遂げんことをと祈念
し ここにその由来を誌す
   昭和五十一年四月
              建設委員一同

習志野騎兵旅団発祥の地碑 八幡公園入口
習志野騎兵旅団発祥の地 碑
八幡公園入口(煉瓦造の門柱)