発祥の地bannar
古九谷発祥之地
 [こくたにはっしょうのち]


場所
石川県加賀市熊坂町
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JR北陸本線の大聖寺駅前広場にある駐車場は 中央が植栽で区切られ,駅側はタクシー用, 駅から遠い側は自家用車用となっている。 この植栽の所に大型の煙突様の塔(碑)があり「古九谷発祥之地 大聖寺」と書かれたタイルが, 駅側とその裏側の両面に埋め込まれている。
碑の横には副碑があって,古九谷の由来と古九谷焼ゆかりの人が書かれている。
この碑は1990(平成2)年に 大聖寺文化協会によって建立された。

九谷焼は,加賀藩の支藩である大聖寺藩の初代藩主・前田利治が,領内の九谷村で鉱山開発中に陶石が 発見されたのを機に 磁器の生産を企画。九谷鉱山で錬金の仕事に従事していた後藤才次郎を 陶業技術の修得のために肥前有田に派遣。後藤は帰藩後 九谷の地に窯を築き, 田村権左右衛門らを指導して,1655(明暦元)年頃に色絵磁器の生産を始めた。 これが九谷焼のはじまりである。
その後 二代藩主利明に引き継がれ,この時期に焼成された作品は「古九谷」と呼ばれ, 後の時代の「再興九谷」とは一線を画して扱われる。

しかし この古九谷は約50年後,元禄の頃(1700年代初頭)に突然姿を消した。廃窯の原因は不明であるが, 事業を推進してきた二代藩主利明が死去し,さらに製陶の責任者だった後藤才次郎が1704(元禄17)年に死去して, 中心人物を失ったこと,また藩財政が悪化したことにより 多額の経費を要する九谷陶業が廃止された のではないかと推定されている。

古九谷の廃窯から一世紀の後 九谷焼が再興され,吉田屋窯・木崎窯・宮本屋窯・松山窯などが 開かれた。古九谷が官営の窯であったのに対して この時代の九谷焼は民営の窯で行なわれ 「復興九谷」と呼ばれ,これが明治以降まで引き継がれた。

   

撮影日
2009年8月 (写真提供 T.H.さん)
碑文
古九谷発祥之地 大聖寺

(副碑)
  ◇ 古九谷発祥
大聖寺初代藩主前田利治は,加賀藩3代前田利常の 第3子として元和4年(1618)金沢に生まれ,寛 永16年(1639)22才のとき分封をうけ,大聖 寺7万石の藩主となった。母は将軍秀忠の2女であり, 将軍の孫でもあり豪奢な暮らしをしていたようである。 元来事業家でもあり,産業を奨励し,新田や鉱山の開 発に意をそそぎ,自ら率先して事に当たった。
また,趣味も広く茶道を好み小堀遠州に私淑して陶 器にも関心を持ち,茶器類を収集したり,楽焼きを試 みたとも伝えられている。
時に鉱山奉行土田清左衛門や藩士後藤才次郎等の力 で,金山のあった九谷に陶土が発見されたので,当時 領内になかった製陶に着目して焼物を造ることが計画 されるようになった。そして,その後多くの人々の辛 苦が実り,2代藩主前田利明の明暦元年(1655) に,世界に冠たる色絵磁器である大聖寺焼(古九谷) を生み出したのである。

  ◇藩政期九谷焼ゆかりの人々
・前田利治
 (実性院・墓)
藩内に産業を興させ,磁器による焼き物を完成させた。菩提寺実性院に御霊,墓がある。
・前田利明
 (実性院・墓)
二代藩主として兄の意志を継ぎ,上絵磁器を完成させた。墓は実性院の裏山にある。
・土田清左衛門
 (全昌寺・墓)
大聖寺藩祖利治に仕え,藩の鉱山奉行として鉱山開発,磁石の発掘に務めた。
・後藤才次郎
 (本善寺・墓)
大聖寺藩士で,藩の吹座役を勤めた。本善寺には才次郎銘鐘が残っているが,この才次郎こそ磁器完成に最も尽力があった人である。
・田村権左右衛門
 (美術館・作品)
大聖寺藩に仕え,九谷の地で才次郎等と古九谷創始に尽力した。その作品も現存している。
・吉田屋電右衛門
 (久法寺・墓)
大聖寺の町や,吉田屋の四代豊田伝右衛門は,文政七年九谷の地に吉田屋窯を築き,古九谷の再建に尽力した。
・飯田屋八郎右衛門
 (蓮光寺・墓)
天保年間山代の宮本窯で赤絵細描き陶画を研究し独特の「八郎手」という画風を創始した。


 
古九谷発祥之地 碑
古九谷発祥之地 碑