発祥の地bannar
日仏親善函館発祥記念碑
 [にちふつしんぜんはこだてはっしょうきねんひ]


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場所
北海道函館市船見町
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函館市電の終点・函館どっく前停留所から 南に500m。
函館半島の西端に 称名寺と東本願寺函館別院に挟まれて,日蓮宗の一乗山・実行寺がある。
本堂の前には 「日仏親善函館発祥記念碑」と刻まれた石碑があり, その上に 丸い窓の空いた石の彫刻が載っていて, 窓の中央で 左右から突き出た2人の手が しっかり握手している,という 印象的なモニュメントになっている。

日米和親条約が締結された 1854(安政元)年,函館港はまずアメリカに対して開港され,次いで 日英・日露両国とも 和親条約締結と共に 両国に対して開港されていった。しかし フランスとの間で和親条約が締結されたのは, 1855(安政2)年10月のことだった 。
フランスに対して開港される前の 1855(安政2)年6月,フランスの軍艦 シビル号が入港した。 当然 乗組員の上陸はできなかったが,同艦には多くの病人がいたため 治療のために病人が箱館に上陸する許可を箱館奉行に要請した。
これに対して 箱館奉行竹内保徳は“人命にかかわる事故”として,病人の上陸・養生を独断で許可し, 実行寺に 病人30人と医師等を収容した。
さらに 同年7月,別の軍艦・コンスタンチーヌ号が入港して,シビル号と同様に 病人の上陸・養生を要請し許可された, 最終的に コンスタンチーヌ号は,6名の死者を除くすべての病人を収容して 9月に出港した。 病人が実行寺に滞在していた期間は 最長65日間であった。
また 当時の症状の記録などから,これらの病人は“脚気”であったと推定されている。

なお,実行寺については 函館市が設置した説明板に 以下のように書かれている。


実行寺は,明暦元年(1655年),山ノ上町(現弥生町)で清寛という僧が草庵を結んだのが始まりで,元禄3年(1690年) 松前の日蓮宗法華寺の末寺となったが,実行寺と称するようになったのはいつ頃からか明らかではない。 (明治17年山梨県身延山久遠寺の末寺に編入。)
正徳4年(1714年),富岡町(現弥生町)に移転し,明治12年(1879年)の大火後,同14年(1881年)にこの地に移った。 その後も幾度か大火に見まわれ,同43年(1910年)現在の建物が完成した。
実行寺は,安政元年(1854年) ペリーが来航したとき写真班の宿舎にあてられ,同5年(1858年)にはロシア領事館にも利用された。
また,明治2年(1869年)箱館戦争終結後,旧幕府軍戦死者の遺体が市中に放置されたままになっていたとき, 住職が侠客柳川熊吉と相談して,寺に葬ったという美談も残されている。
                            函館市
撮影日
2009年4月
碑文
日仏親善函館発祥記念碑

 1855年 フランス・インドシナ艦隊のシビィル号,ヴィルジニ号, コンスタンチヌ号の緊急寄港に際し,箱館奉行,竹内下野守保徳は 独断で人道的立場から入港と養生の為の上陸を許可した。

 奉行の要請に応じた実行寺第16世住職,松尾日隆上人は,傷病 乗組員の平癒につとめ,病没した六名の乗組員を除いてその大半は 無事祖国への帰還を果すことができた。

 百有余年の時を経て今,日仏親善の発祥の地,あわせて仏教徒とキ リスト教の両宗教者の友愛の永遠なる証しとなるよう,この地に記 念碑を建立する。

     2001年(平成13年)10月6日 日仏親善函館発祥記念碑建立準備会
                 代表 神父フィリップ・グロード
                 函館日仏協会


 
日仏親善函館発祥記念碑 同・中央部拡大
日仏親善函館発祥記念碑
同・中央部拡大

実行寺本堂
実行寺本堂

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