発祥の地bannar
蚕種渡来之地
 [さんしゅとらいのち] 


場所
山口県下関市長府宮の内町
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JR山陽本線の長府駅から南南東に2km余り。長府郵便局の近くに“忌宮(いみのみや)神社” がある。拝殿左方の氏子会館前に 6mを超える巨大な石碑が建っている。
主碑(写真[1])のほかに, 氏子会館側に建つ副碑(写真[3])と 傍に建つ案内碑(写真[2])とがある。

忌宮神社は, 第14代仲哀天皇が 熊襲の平定のため西下し, 西暦193年から7年間, この地に滞在した 仮の皇居「豊浦宮」跡といわれる。(写真[4])
蚕種(蚕の卵)が中国から渡来したいきさつは 碑文に詳しく書かれている。

撮影日
2005年11月
碑文[1]
蚕種渡来之地
  大日本蚕糸会頭正三位勲三等子爵牧野忠篤題字

謹ミテ按ズルニ人皇第十四代仲哀
天皇即位二年 天皇ハ熊襲征討ノ
為穴門国豊浦津ニ 行幸アラセラ
レ此ノ地ニ 皇居ヲ奠メタマフ之
ヲ穴門豊浦宮ト称シ奉ル今ノ山口
県豊浦郡長府町鎮座国幣小社忌宮
神社ノ神域ハ即チ其ノ旧阯ナリ三
代実録ニ拠レバ仲哀天皇即位四年
秦ノ始皇十一代ノ孫功満王入朝帰
化シ珍宝蚕種ヲ奉献シタリト云フ
是レ異邦蚕種ノ初メテ吾ガ国ヘ渡
来セシコトヲ証スル文献ニシテ而
シテ其ノ地ハ実ニ此ノ神域ニ外ナ
ラス頃者山口県蚕糸業者竝ニ有志
者胥謀リ此ノ由緒アル地ヲ記念シ
之ヲ後昆ニ伝ヘンカ為茲ニ碑ヲ建
テ其ノ由来ヲ勒スト云爾
  昭和八年十二月
大日本蚕糸会山口支会長正五位勲四等菊山嘉男撰

碑文[2]
「蚕種渡来之地」記念碑

いまから約1800年のむかし中国より秦の始 皇11世の子孫功満(こま)王が来朝帰化しここ豊浦宮 にご滞在の仲哀天皇に蚕種(カイコの卵)を 献上したのが, わが国養蚕の始まりと伝えら れる。生糸の輸出の最も盛んであった昭和8年に 養蚕関係者によってこの碑が建立された。

碑文[3]
蚕種渡来之地

 わが国蚕種の全盛期ともいうべき昭和7年 の全国養蚕農家は220万戸余 蚕種製造 戸数約6千 製糸工場7万余で これらの関係 者は1000万人を超え 世界の生糸の総生産 額約4万5千トンのうち7割をわが国が生産 し 生糸は対外貿易の首位を占めた
 時あたかも 「山口県蚕糸業史」の編纂に 際し「三代実録」等に見える蚕種渡来のい にしえを偲び その恩恵を感謝し 大日本蚕 糸会山口支会長 山口県製糸業組合長 山口 県蚕種業組合長 山口県繭市場連合会長 山 口県桑苗同業組合長 山口県養蚕業組合連合 会長をはじめ 県下各郡養蚕業組合長 地元 長府の有志らの発起により記念碑の建立が計 画され 募金総額3千800円に対し7千390円 の浄財が寄せられ 一部は維持基金に あてられた
 碑の高さは約6.3メートル 重さ37トン余で  自然石では山口県一を誇り 題字 は大日本蚕糸会々頭水野忠篤 碑文は大日本 蚕糸会山口支会長菊山嘉男知事 工事は山口 市の石材店藤井百合吉で 昭和8年12月2日  忌宮神社宮司松島浅之助以下全神職の奉 仕により盛大に除幕式が執り行われた
 戦後の世相混乱期に碑文の銅板が著しく損 傷されたため 今回 山口技研 山下勇二社 長の篤志と中村石材店の協力により御影石 をもって復元するにあたり建碑の概要を記 して当時の偉業を顕彰する次第である
    昭和61年3月
        忌宮神社宮司宮崎義敬

[1]蚕種渡来之地碑 [2]案内碑
[1]蚕種渡来之地 碑
[2]案内碑

[3]副碑 height= [4]豊浦皇居址碑
 [3]副碑
 [4]豊浦皇居址碑