発祥の地bannar
床屋発祥之地
 [とこやはっしょうのち] 


場所
山口県下関市中之町
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JR山陽本線・下関駅から 国道9号線で 西に2.5km。亀山八幡宮の大きな鳥居の下。 石段を左に見たところに, 人間の頭を模した大きな球と 櫛と日本剃刀をかたどった 石碑が建っている。

「床屋」という名称の由来は 下記の碑文に書かれているが, 藤原基晴・采女之亮政之の 父子は この地で髪結業を営んだと言われ, 下関は「床屋発祥の地」とされる。

亀山八幡宮は, 関門海峡を見下ろす小高い丘にある。ここは 江戸時代末期に「亀山砲台」が置かれた場所で, 1863(文久3)年 開国を迫る 諸外国(アメリカ・フランス・オランダ3国)の艦船と砲火を交えた。 (いわゆる“馬関戦争”)
また 1kmほど東は「壇の浦」。ここで「源平合戦」が行われ, 源義経が 平家と戦い 勝敗の帰趨が決まった。安徳天皇は 二位尼(平清盛の妻)に抱かれて入水した。 壇の浦に面する「赤間神宮」には, 安徳天皇の廟と 平家一門の墓がある。

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撮影日
2005年11月
碑文(1)
床屋発祥之地 由来

 鎌倉時代の中期(1264〜73)亀山天皇に仕えて いた京都御所の北面の武士従五位ノ下北小路蔵人之頭藤 原基晴は 宝刀の紛失事件の責任をとって職を辞し 三 男采女之亮政之を連れて宝刀探索のため 当時蒙古襲来 で風雲急を告げていた長門国下関に下った
 基晴親子は 当時下関で髪結をしていた新羅人からその 技術を学び 往来の武士を客として髪結所を開いた 店 の床の間には亀山天皇と藤原家の先祖を祭る祭壇があっ たので下関の人々はいつとはなしに「床の間のある店」 転じて「床場」さらに「床屋」という屋号で呼ぶよう になった 「床屋」という言葉は下関が発祥地となりそ の後全国に広まっていった
 藤原基晴は弘安元年(1278)に没し市内の専念寺に 葬られた 采女之亮は床屋をつづけながら宝刀の探索を続 けそのうち豪商の協力により逐に宝刀を捜し出して天皇 に奉還した その後鎌倉に移り住み幕府から京都風の髪 を結う髪結職として重用され 屋敷も賜り代々その職を 受け継いだ
 時は流れて元亀3年(1572)17代目の籐七郎の時 武田信玄との戦いで敗退中の徳川家康を助けた功績によ り江戸開府後 江戸八百八町の髪結職の営業権を与えら れ また橋見守役や火事の時は奉行所の重要書類搬出な どの役目も仰せつかった
 特に二代将軍徳川秀忠が「四民髪ヲ結ウハ勝手ノコト身 ヲキレイニスルハ長寿ノ元ナリ」というお触れ書を出して から庶民はこぞって髪を結うようになり 男髪結職と女 髪結職が急に増え 日本独特の髪型が流行し始めた  江戸時代の風俗文化は髪結職により創り出されたとも言 われている 歌舞伎役者の髪型や衣装また浮世絵に見ら れる美人画の髪型や衣装は 当時の女髪結職の芸術性の 豊かさを物語るものである
 床屋の開祖 藤原采女之亮政之の功績を讃え かけがえ のない史実を後世に伝えるためここに記念碑を建立した
    平成7年7月17日
      下関理容美容専修学校 理事長・校長 小野孝策 撰
                    石工  長府 中村重雄

床屋発祥之地碑 亀山八幡宮
床屋発祥之地 碑
亀山八幡宮


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