発祥の地bannar
小倉餡発祥の地
 [おぐらあんはっしょうのち] 


場所1
京都府京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町
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JR嵯峨野線・嵯峨嵐山駅の西 約1km。
小倉山 ニ尊院(天台宗)の総門を入り 広い参道“紅葉の馬場”を進む。 左手に唐門(勅使門)を経て本堂があるが, ここは右手に進み 八社宮手前を左に入ると, 大きな“茅の輪”をかたどったような金属のモニュメント(平安遷都千二百年記念の彫刻)と並んで 「小倉餡発祥の地」と刻まれた石碑が建っている。

なお, 二尊院の総門から 50mほど北の道路脇に, 「小倉餡発祥の碑 二尊院山内」と記され 矢印が書かれた あまり大きくない石碑が建っている。
この碑を先に見てしまうと, これが 小倉餡発祥の地 かと思ってしまうが, これは“二尊院の境内に行けば発祥碑がある”という意味の“案内碑”らしい。 非常にまぎらわしい。

場所2
京都府京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町
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二尊院総門から 200m南に 落柿舎がある。落柿舎の向い側は広々とした畑になっていて, その北西隅に 高札風の説明板が建っている。
説明文の内容は 二尊院の石碑の碑文とほとんど変わらない。

嵯峨野の寺巡りは, たてこんだ民家の間を通って 狭い道をたどることになるが, ここ落柿舎の前だけは 広々とした畑になっていて, 落ちついた空間が広がり, 大変気持ちがいい。
この畑は 京都市が買い取って 昔ながらの景観を保存しているとのことで, 周辺の電線類も地下に隠されているとか。
またここは 小豆畑のようで「小倉大納言 実験農場」という説明板も見られる。

撮影日
2007年6月
碑文1
小倉餡発祥の地

   小倉餡発祥の由来
 日本で初めて小豆と砂糖で餡が炊かれたのは平安京が出来て間もなくの八百二十年の ことであります。
 当時, このあたり小倉の里に和三郎という菓子職人がいて, 亀の子せんべいを作って いましたが八百九年に空海が中国から持ち帰った小豆の種子を栽培し, それに御所から 下賜された砂糖を加え, 煮つめて餡を作り, これを毎年御所に献上されました。 その後, この和三郎の努力で洛西を中心に小豆が広く栽培され, 江戸時代には茶道の 菓子にも用いられ, ハレの料理にも加えられるようになりました。
 和三郎は承和七年二月二日(840年)に亡くなりましたが, その子孫並びに 諸国同業の人々がその功績をたたえて 小倉中字愛宕ダイショウの里に一社を建て, 朝廷の允許を得て, 屋号が亀屋和泉でありましたので, 和泉明神としてまつられる ようになりました。
 その後年月を経て明神の社は兵火に焼かれ, 子孫も絶えて, 只古老の伝承として伝え られてきましたが, 昭和二十三年三月に嵯峨商工研究会の席上にて藤本達造氏を含め 高桑義正, 鈴木広政, 都田左兵衛(五代), 中路明の諸氏の方々から此の伝承が確認 されています。
 今ここに創業二百年を記念してこの碑を建立することにより, 小倉餡の歴史を 解明する端緒となれば幸いです。
    平成十七年三月六日
          井筒八ツ橋本舗 六代 津田左兵衛建之

碑文2
小倉餡発祥の由来  (落柿舎前の説明板)

 日本で始めて小豆と砂糖で餡が炊かれたの は 京都に於いて平安京ができて間もなくの 820年頃のことであります 当時 京の このあたり 小倉の里に亀の甲せんべいを作って いる和三郎という人がいて 809年に空海が中 国から持ち帰った小豆の種子を栽培しそれに御所か ら下賜された砂糖を加え 煮つめて餡を作りま した これを毎年御所に献上しました こう した菓子は極めて高価で珍しいものでありましたので 一般の庶民の口には入りませんでしたがこの和三郎 の努力で京都を中心に小豆が広く栽培され 江戸時代には茶道の菓子となり 又一方では祝飯 として ハレの料理にも加えられるようになりました
 更に空海は中国の亀の甲煎餅の技術も伝授 し京菓子の技術は日本の和菓子の源流となりました
 和三郎は承和7年2月2日(840年)に なくなりましたが その子孫並びに諸国同 業の人びとがその功績をたたえて 小倉中字 愛宕「ダイショウ」の里に 一社を建て朝廷 の允許を得て 屋号が亀屋和泉であり ましたので 和泉明神としてまつられるよ うになりました
 その後 年月を経て明神の社は兵火に 焼かれ子孫も絶えて 只古老の伝承として 小倉の地に和泉明神の社があったと伝えられています。
          都田左兵衛 (六代) 記


 
小倉餡発祥の地碑[1] 発祥碑とモニュメント「真」
小倉餡発祥の地 碑[1]
発祥碑とモニュメント「真」

案内碑 落柿舎前の説明板[2]
案内碑
落柿舎前の説明板[2]