発祥の地bannar
氷川神社発祥之地
 [ひかわじんじゃはっしょうのち] 


場所
東京都練馬区桜台6丁目
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東京メトロ 有楽町線の氷川台駅から 南東に300m。
石神井川の南側の住宅街に, 「おはま井戸」と赤い文字が刻まれた石碑が建つ一画がある。
ここに 「氷川神社発祥之地」と記された 大きめの石碑が建っている。

ここは一見すると公園のように見えるが, 公園ではなく, 神社でもない。 何の説明もないが 想像するに, 神社に類する一種の“聖域”とでもいうところだろうか。
入口には低い位置に鎖が架けられていて, 無断で立入ることがためらわれる。
石碑の近くには「氷川神社発祥之地」と書かれた木の標識が建っていて, コンクリート製の井戸の枠のようなものがあるので, これが“おはま井戸”であろうかと 推察される。

この「氷川神社発祥之地」は 以下の説明でのわかるように, ここから500m程北西にある 氷川神社(練馬区氷川台4丁目)が この地に発祥したことを 伝えるもので, “全国の氷川神社の発祥地”という意味ではない。
氷川神社は, 埼玉県さいたま市大宮区にある 通称「大宮氷川神社」を総本社とする神社で, 分社は 東京都と埼玉県を中心に 200社以上あると言われる。

氷川神社(氷川台4丁目)の境内には 次のような説明が書かれている。

    氷川神社

 氷川神社は, 須佐之男命を祭神とする旧下練馬村の鎮守 社です。
 社伝によれば, もとは石神井川近くの泉がわき出ていた 「お浜井戸」のところにあったといわれ, 長禄元年(1457) に渋川氏が足利氏との戦いに行く途中, 武運長久を祈って 立てたと伝えられています。この故事により, 今では三年 に一度となりましたが, かつては毎年四月九日の春祭の日 に, 神輿を「お浜井戸」まで, 「お里帰り」する渡御行列が 行われました。行列は, 風祭, 柄本, 奥津, 篠の四家が参 列し, 総代が先導となり, 神職, 幟(のぼり), 太鼓などと続き, お 供の人々は, 扇子を口にあて道中歌を歌いました。井戸に 神輿が着き奉安すると, その前で「鶴の舞」が氏子二人に よって演じられました。また, かつては, この日の晩に拝 殿で古式を伝える「田遊び」が行われていました。
    (以下略)
  平成元年三月
                    練馬区教育委員会

また 練馬区の広報には 次のような記述が見られる。(抜粋 2006/4付)

   氷川神社で「鶴の舞」と「神輿渡御の御供道中歌」を披露

氷川台4丁目にある氷川神社では,春の大祭に合わせて「神輿渡御行列」 が行われ,「神輿渡御の御供道中歌」と「鶴の舞」が披露される。
この行事は江戸時代に当地で既に行われており,道中歌の歌詞は中世に歌われていた 詞の系譜を引くものである。また,鶴の舞は,全国的にも珍しい民俗芸能であり, 二つの行事は,練馬区無形民俗文化財となっている。
今では3年に一度しか見られない貴重なものとなっている。

氷川神社は,500年以上の昔から,鎮守として地域の人たちに親しまれてきた。 社伝によれば,本社の創建は長禄元年(1457),渋川義鏡が戦の途中,下練馬で石神井川を 渡ろうとした際に,川辺にこんこんと湧き出る泉を発見,兵を休めて須佐之男尊を祭り 武運長久を祈ったことに始まるという。
この泉を「お浜井戸」といい氷川神社はもともとそこにあった。 今では住宅街の中の空き地(約260平方メートル)に石碑だけが残っている。


撮影日
2007年9月
碑文
氷川神社発祥之地

   氷川神社の由来
古老口碑に御花園天皇の長禄元年に
渋川義鏡が足利成氏との戦に向かう
途中 此処石神井川の急流に出会ふ
淀む処に泉 渾々として湧出る
水際の井戸即ち御浜井戸と称す 暫
く兵士を休めてその傍に祠を建て須
佐之男尊を祀り九月五日武運長久を
祈る この流水を水田に用い一帯を
良田となす 近郷の農家の崇敬の的
となり親しまれた 後 海老名左近
住するに及び観世音を安置せる観音
山 即ち今の地に遷さる 霊験あら
たか 五十一宇の総鎮守となる 現
今祈年祭に合せて毎年四月九日 祭
神の御里帰りと称し 神社より此処
え神輿渡御が行われる 行列は神幸
旗を先頭に五色の吹流し 太鼓の響
にのって氏子の人等の道中歌 此処
に神輿を奉安し 獅子の舞で祓い清
め 子孫繁栄五穀豊穣を祈る雌雄二
羽の鶴の舞が行われ その夜神社で
田遊びの行事が行われる由緒ある処
です
   昭和四十七年四月吉日

  (注:“御花園天皇”は“後花園天皇”の誤りであろう)

氷川神社発祥之地 石碑 同 木碑
氷川神社発祥之地 石碑
同 木碑

お浜井戸碑
 お浜井戸 碑