発祥の地bannar
天神信仰発祥の神社
 [てんじんしんこうはっしょうのじんじゃ]


場所
京都府京都市下京区天神町
コメント
京都市営地下鉄・烏丸線 五条駅の南東 200m。
渉成園(東本願寺の枳殻邸)の北西角のすぐ近くに 「文子天満宮」(あやこてんまんぐう)がある。
町屋の中に埋もれたような 目立たない やや小規模な神社で, 神社正面の鳥居前に「北野天満宮の前身神社 天神信仰発祥の神社」と刻まれた石碑が建っている。 また 入口の看板(表札)をはじめ 各所に「天神信仰発祥の神社」の文字が見られる。

天神信仰とは, 菅原道真を「天神様」として祈願する神道の信仰の一つ。
菅原道真が藤原氏の讒言により無実の罪で太宰府に左遷され, 失意のうちに没した後, 都では日照りが続き, 天皇の皇子が相次いで病死し, さらに清涼殿への落雷により多くの死傷者が出た。 これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は, 没後20年目に 道真の左遷を撤回して官位を回復し, 正二位を贈った。

文子天満宮および北野天満宮が造営されるについて, 次のような言い伝えがある。
菅原道真公の死後, 道真公の乳母であり 巫女をつとめていた 多治比文子(たじひのあやこ)は, 道真公から「われを 右近の馬場(現在の北野天満宮の地)に祀れ」との託宣を受けた。
力のない文子は 自宅の庭に小さな祠を建て ここに道真公の霊を祀った。 これが 文子天満宮のはじまりで, 菅原道真を天神様として信仰の対象にした 最初であって, 「天神信仰発祥の神社」といわれるようになった由縁とされる。
さらに数年後に 北野天満宮が創建されたことにより 「北野天満宮の前身神社」とも 言われる。

文子天満宮に入ると,京都市による 文子天満宮の説明板が目に入る。

    文子天満宮  あやこてんまんぐう

 祭神として菅原道真を祀り, 洛陽天満宮二十 五社の一つに数えられている。
 社伝によれば, 太宰府(福岡県)に左遷された 道真は, 延喜三年(903)に五十九歳で没し たが, 没後, 道真の乳母であった多治比(たじひの)文子は, 「われを右近の馬場に祀れ」との道真の託宣(おつ げ)を受けたという。しかし, 文子は貧しく, 社殿 を建立することができず, 右京七条二坊の自宅に 小さな祠を建て, 道真を祀ったといわれている。 これが当社の起こりで, 天神信仰発祥の神社, また北野天満宮の前身とも伝えられている。
 以後, 天明, 安政, 元治の大火で類焼したが, その都度再建され, 明治に至り, 村社に列せ られた。現在の社殿は, 大正七年(1918)に 造営されたものである。毎年四月十六日に近い 第三日曜日に, 例祭が執り行われる。
                  京都市


文子天満宮の境内には 多治比文子の像が鎮座している。(下写真)
菅原道真の乳母ならば 神社を創建した時には 相当の年齢だったと思うのだが, 銅像は 少女のように若い姿で, ちょっとやり過ぎじゃないの? と苦笑させられる。

ちなみに, 菅原道真を祀る神社は 天満神社・菅原神社・天神社・北野神社 などの名称で 日本全国に分布しており, 主なものだけでも 60社以上, 境内社なども含めると 1万社にもなると言われる。

(関連項目) 菅家発祥之地

撮影日
2007年6月
碑文
北野天満宮の前身神社
  天神信仰発祥の神社

      北野天満宮宮司浅井與四郎謹書
      平成六年六月吉日

 菅原道真公は太宰府へ左遷の途次離別に際し菅原道真公自ら彫られた神像を乳母の文子に託した。 文子は庭前に祠をもうけ日夜崇めまつった。これが天神信仰斧始まりであり当神社の起源であります。
天慶五年(942)多治比の文子は菅原道真公の託宣(おつげ)をうけた。天暦元年(947)六月九日今の北野 の地に移しまつり北野天満宮の創建となった。
北野天満宮より前におまつり申し上げた次第から「北野天満宮の前身神社」といわれ多治比の文子が 菅原道真公を神とし信仰の対象として最初に崇めおまつり申し上げましたことから 「天神信仰発祥の神社」といわれる由縁であります。
    天神信仰発祥の神社 北野天満宮の前身神社
    菅公生誕千百五十年祭建立          文子天満宮
                       宮司 中小路宗広

天神信仰発祥の神社碑 文子天満宮
天神信仰発祥の神社 碑
 
文子天満宮
 
文子像 多治比文子像
多治比文子 像