発祥の地bannar
長岡国漢学校発祥之地
 [ながおかこっかんがっこうはっしょうのち] 


場所
新潟県長岡市四郎丸4丁目
コメント
JR上越新幹線の長岡駅から南東に500m。
曹洞宗の寺 昌福寺の本堂近くに「長岡国漢学校発祥之地」と刻まれた大きな石碑が建っている。

長岡は 江戸時代には 新潟県中越北部から下越西部にまたがる藩であった。 幕末の戊辰戦争に際しては 旧幕府側につき 新政府軍と激戦となり, 多くの戦死者を出して 降伏した。
敗れた長岡藩は, 石高を 1/3近くまで減らされたため 財政が極度に窮乏し, 領民は その日の食にも苦慮する状態となった。 この窮状を見かねた近くの三根山藩が 百俵の米を贈ることとなった。
しかし 藩の大参事であった小林虎三郎は, 贈られた米を藩士に分け与えず, これを売却して 学校を設立する費用とすることとした。藩士たちはこの通達に驚き 抗議をしたが, 虎三郎は「百俵の米も 食えばすぐになくなるが, 教育にあてれば明日の一万俵・百万俵ともなる」 と説得し 実施した。
この“米百俵”の売却益によって開校したのが「長岡国漢学校」であった。
この「米百俵の精神」は, 後に 山本有三が戯曲「米百俵」に著し, また 近年には 小泉純一郎・元首相が 国会での所信表明演説で引用したため有名になり 流行語にもなった。

国漢学校は 1869(明治2)年に 昌福寺の本堂を借りて開校し, 翌年には 近くに新校舎を建てて移転した。(現在の 大和デパート付近)
しかし 新たに発布された学制によって 1871(明治4)年には廃止されて 新しい 小学校に引き継がれていった。
このような歴史により, 昌福寺には「長岡国漢学校発祥之地」の碑が, 大和デパート前(長岡市大手通2丁目)には 次のような「米百俵之碑」が設置されている。

      米百俵之碑
          国漢学校跡地

小林虎三郎 文政十一年(一八二八)に生まれ,晩年 病翁と改めた。 佐久間象山に学び,吉田松陰と象門の 二虎と称された。 戊辰戦争後,敗残のすえ,焦土と 化した長岡の大参事に抜てきされた。 教育第一主義を 唱え,支藩三根山藩の教米百俵を赤貧にあえぐ藩士の 強要を退け, 国漢学校設立の資にあて,長岡復興の礎を つくった この事跡は山本有三著「米百俵」によって 広く世に伝えられた。
明治十年病歿 年五十。

撮影日
2007年10月 (写真提供 K.T.さん)
碑文[1]
長岡国漢学校発祥之地
    明治二年五月一日 当昌福寺開校


 
長岡国漢学校発祥之地碑 昌福寺本堂
長岡国漢学校発祥之地 碑
昌福寺 本堂