発祥の地bannar
立命館学園発祥之地
 [りつめいかんがくえんはっしょうのち] 


場所
[1] 京都府京都市上京区広小路通河原町
[2] 京都府京都市上京区東三本木通丸太町
コメント
京都御所のすぐ東, 府立医大の図書館の敷地内の南側に 写真[1] の石碑 「立命館学園発祥之地」が建っている。
また ここから 500メートル程南東に「立命館草創の地」という碑[2]が建っている。

明治の元勲 西園寺公望は, 明治維新直後の 1869(明治2)年に 京都御所内にあった自邸に 私塾「立命館」を開き, 新しい時代に向けた勉学を行った。
1900(明治33)年 文部大臣時代, 西園寺の秘書であった 中川小十郎が 西園寺の志を引き継ぎ, “清輝楼”の仮校舎に「私立京都法政学校」を設立。 これが 現在の 立命館の前身である。 翌年には 広小路校舎(現在の 府立医大)に移転。
1905(明治38)年 西園寺より「立命館」の名称継承の許可を受け, 「私立立命館大学」と改称。
1948(昭和23)年, 学校教育法による 新制大学「立命館大学」となる。
1981(昭和56)年に 衣笠キャンパス(京都市北区等持院北町)へ全面移転し 現在に至る。

撮影日
2004年6月
碑文1
立命館学園発祥之地

  一九〇〇年、中川小十郎により創立され
東三本木丸太町上る旧清輝楼の仮校舎で授業
を開始した京都法政学校は、翌年一二月三〇
日、この地の新校舎に移転し、一九〇五年に
は維新当時の西園寺公望の家塾であった立命
館の名称を受け継いだ。同年には付属清和普
通学校も開設され、翌年に立命館中学校と改
称し、一九二二年に北大路新町に移転するま
でこの地にあった。
 立命館は爾来この場所で校地を約七千坪に
拡張し、校舎は延一万二千坪余におよんだ。
一九八一年三月に八十年にわたる広小路学舎
の歴史を閉じるまで、十万余の有志の若人が
ここに学び、真理と理想を追求した。
 この地にあって、激動する世界と日本の二
〇世紀とともに、立命館はその栄光と苦難の
道を歩んだ。特に第二次大戦に際し、かつて
この学舎に学んだ多くの同窓が戦場におもむ
き、再び帰らなかったことは、痛恨にたえな
いところである。
 戦後、立命館は平和と民主主義の教学理念
をかがげて大いなる飛躍をとげ、広く世界の
学術研究機関と結んで、地球と日本の現代的
課題にこたえる教育と研究を推進しつつある。
 今日の立命館の営為は、二〇世紀初頭以来
この地で展開された幾多先人の業績の上に成
りたっている。
 わが学園発祥の地を記念する所以である。
        一九九二年五月一九日
           学校法人立命館
          理事長 西村清次

碑文2
立命館草創の地

   京都法政学校設立
   1900年(明治33年)5月19日

 立命館大学の前身京都法政学校
は、一九〇〇年(明治三三年)五
月一九日中川小十郎によってこの
地に創立された。
 ここにあった当時の有名な旗亭
清輝楼を仮校舎として、六月五日
から夜間授業を開始し、翌年の移
転以後は約八〇年間にわたってい
わゆる広小路学舎(現府立医大の
西構内)が中心になったが、鴨川
畔東三本木のこの場所はまさに立
命館草創の地といってよい。
 中川小十郎は、「世界の中の一
員」としての日本を常に意識して
いた近代日本の代表的政治家西園
寺公望の最初の文部大臣在任中、
特命による唯一の大学書記官とし
て京都帝国大学(現京都大学)創
立に尽瘁の傍ら、京都の地でのも
うひとつの「自由と清新」の学府
づくりをめざしたのであった。
 京都法政学校はその後、西園寺
がすでに一八六九年に御所の邸内
に開いた家塾“立命館”の名称を
継承して、立命館大学(旧制)へ
と発展した。「平和と民主主義」
の教学理念を加えた戦後の立命館
のさらに大きな展開については多
言を要しない。
 なお清輝楼は、明治維新の中心
的な担い手のひとり桂小五郎(木
戸孝允)と幾松(のちの木戸夫人
)の逸話でよく知られる吉田屋の
あとをうけ継いだものといわれ、
その後の変遷を経て一九九七年ま
で大和屋旅館として存続した。

 二〇〇〇年三月二十三日
      学校法人  立命館
      理事長  川本八郎

立命館学園発祥之地碑
  [1]立命館学園発祥之地 碑
立命館草創の地碑
 [2]立命館草創の地 碑