発祥の地bannar
堺砲術発祥之地
 [さかいほうじゅつはっしょうのち]


場所
大阪府堺市堺区鉄砲町
コメント
南海電鉄南海本線・七道駅前ロータリーの大和川寄りの高架線路下にあたる場所に,「放鳥銃定限記」という高さ3mほどの大きな石碑があり,その右側に「鉄砲鍛冶射的場跡」という石碑も建っている。鉄砲鍛冶射的場跡碑の前には「堺砲術発祥之地」と書かれた平板状の石碑が埋め込まれている。

和泉堺は,紀州根来・近江国友と合せて,鉄砲の生産地として有名である。 16世紀に種子島に鉄砲が伝来してから数年後には,2つのルートで堺・紀州に鉄砲の技術が伝えられている。
一つは堺の商人・橘屋又三郎で,種子島の刀鍛冶のもとに弟子入りして 鉄砲の製法技術を持ち帰り,堺で鉄炮の製造を始めた。後に“鉄炮又”と呼ばれる大商人となった。
もう一つのルートは,紀州小倉荘領主・津田監物算長が種子島に渡って,一挺の鉄砲を入手し,根来に持ち帰った。刀鍛冶・芝辻清右衛門にこれの複製を命じ,2年後に紀州第一号の鉄炮が誕生した。芝辻清右衛門は後に堺に移住し、堺は一大鉄炮生産地として知られるようになる。

一方,鉄砲が普及しはじめると,銃を使う技術も重視されるようになり,堺においては小濱民部丞嘉隆などの“鉄砲師”が試射場を設けて射撃技術を教えた。「放鳥銃定限記」はコノ小濱嘉隆の顕彰碑である。

ところで“砲術”とは 単語の意味から言えば“大砲を撃つ技術”であるが,火縄銃が伝来した時代の用語としては 単に“射撃術”という意味で用いられたようだ。
この発祥碑の“堺砲術”とは“射撃の技術”の他に“鉄砲の製造技術”の意味も含まれているのだろう。

発祥碑の隣に建つ「放鳥銃定限記」には次のように書かれている。

      放鳥銃定限記 (ほうちょうじゅうていげんき)
 わが国に初めて鉄砲が伝来したのは,天文十二年(1543年)のことです。
 堺の貿易商人橘屋又三郎は,いちはやく種子島より鉄砲の製造技術と射撃場を持ち帰ったと言われています。また,紀州根来の津田監物算長も伝来の銃を持ち帰り,堺出身の刀工芝辻清右衛門に鉄砲を作らせました。清右衛門は,豊臣秀吉の「根来攻め」のあと堺に戻って製造を続け,鉄砲鍛冶芝辻一門の祖となりました。
 堺鉄砲の製造は,芝辻一門,榎屋一門など多くの鉄砲鍛冶によって国内最大の生産量を誇りました。それとともに試射場も次々と作られ,このあたりにも江戸時代初期につくられた試射場が,昭和の初めまでその面影を残していました。
 大正三年にこの付近で,運河の開削工事中に「放鳥銃定限記」と題した碑が,発見されました。この碑には,寛文四年(1664年)砲術家川名金右衛門忠重によって,「鉄砲 は優れた兵器で,正しく扱えば命中確実である。しかし,そのためには不断の習練が必要である。小濱民部丞嘉隆は文武両道を兼ね備えた人であり,堺の浜に射撃場を設け砲術家の養成や銃の試射を行うなど,大きな功績を残した。」と,恩師小濱丞嘉隆への讃辞と鉄砲試射場の由来が記されています。
 この碑もまた,堺鉄砲の歴史を物語る貴重な資料です。
      運河掘削工事の発起人であった柳原吉兵衛氏は,この碑を後世に伝
      え顕彰するために,自然石をくりぬいた中にはめこみました。その後
      昭和一九年に堺市に寄贈され,長らくザビエル公園に保存されてき
      ましたが,駅前広場の整備にともない,発見場所に近いこの場所に移
      設しました。
   平成二年三月
    堺市
    堺市教育委員会

撮影日
2012年7月 (写真提供 T.H.さん)
碑文
    堺砲術発祥之地
 鉄砲の本土伝来については諸説があるが,天文十二年(1543年)種子島に渡来し,その後,橘屋又三郎によってその製銃法が堺に伝えられたといい,また,紀州の住人津田監物等長(注:「算長」の誤りか?)が種子島で製銃法を習得し,これを芝辻清右衛門に伝えたとも言われている。時,あたかも戦国時代末期のことである。
 その後,江戸時代にかけて ,堺は全国諸大名に鉄砲を供給し最盛期には三十余軒の鉄砲鍛冶が軒を並べていた。この地から東南数百米の一帯にその跡が残っている。
 鉄砲の普及にともなって砲術が興隆した。「放鳥銃定限記」の碑文によれば,小浜民部丞嘉隆はこの道に練達し,堺七道浜に鉄砲射的および兵廠(へいしょう)を設け子弟に砲術を指南したという。その射的場はこの附近一帯にまたがっていた。
 ちなみに『三宝村誌』に「七道停留所より西に下り右手畑中に周囲五間高さ壱間ばかりの小丘あり,是は元鉄砲打場の旧蹟にして,昔はその周囲十間四方高さ四間ばかりの小丘を築き,尚外周囲に四十間四方あり,三方小溝を以て囲繞(いじょう)し枳穀(きこく)垣を設けたり。堺肆に於て鉄砲製作毎に大和川堤塘 (ていとう)に的を立て此所より試撃するの慣例たり」とある。この小丘は鉄砲塚と呼ばれ,昭和十年代の初期までは,この地のすぐ南に存在していた。
 現在この附近の町名を鉄砲町というのは,このような堺鉄砲の発祥にゆかりが深かったからといえる。 なお,「鉄砲鍛冶射的場跡」の石碑は,もとはこの鉄砲塚の上に建てられていたものであるが,鉄砲塚が撤去された際にその区画の一隅に移されていたものを,このたび,新七道駅前整備の一環として現在地に移設し保存するものである。
      昭和五十四年五月     ダイセル株式会社
                   三宝校区自治会連合会

 
堺砲術発祥之地 碑
堺砲術発祥之地 碑
放鳥銃定限記 碑
放鳥銃定限記 碑