発祥の地bannar
甲斐源氏 秋山家発祥之地
 [かいげんじ あきやまけはっしょうのち] 


場所
山梨県南アルプス市秋山
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JR身延線の市川大門駅から西に12km。
櫛形山の東麓,南アルプス市と富士川町の境界近くの“光昌寺”墓苑の隣に“秋山太郎光朝公廟”がある。その入口左側に「甲斐源氏・秋山家発祥之地」という石碑が,右側に説明板がある。
近くの熊野神社は“館跡”で「史跡 秋山太郎光朝公館跡」という木碑が建っている。

甲斐源氏とは 甲斐の国に土着した河内源氏系一門をいい,新羅三郎義光が 甲斐源氏の始祖とされる。その子 武田義清が常陸国で武田氏となり,のちに甲斐に移って土着した。

秋山氏は甲斐源氏武田氏の分流で,加賀美遠光の長男・光朝を祖とし,巨摩郡秋山(南アルプス市)に館を構えて秋山氏を名乗った。
光朝は平氏の信任を得て 平清盛の嫡男・平重森の娘を妻に迎えた。
平家滅亡後 鎌倉に加賀美一党の館を構え 頼朝警護の役職に就いたが,甲斐源氏の勢力拡大を嫌う頼朝に疎まれて,謀反の疑いをかけられて鎌倉において処刑された。

これによって没落した秋山一族が再び世に出るきっかけとなったのは,後鳥羽上皇が鎌倉幕府の討伐を計った“承久の乱”であった。秋山氏は尼将軍北条政子に従い 安泰を迎えた。
戦国時代になると,秋山信任が武田信虎に仕え,息子の秋山信友は武田晴信(信玄)の重臣の一人として数々の武功を挙げたが,信玄の死後,武田軍が織田軍に破れ,秋山氏も滅亡した。

発祥碑の横に設置された説明板には次のように書かれている。

秋山太郎飛騨守光朝公
        十三回忌供養の経筒
 光朝は,武田の始祖武田太郎信義の弟である加賀美次郎遠光の長子で.館を秋山(熊野神社)の地に構え,甲斐源氏の一族と共に権勢を振るい度々京に上りて文武の道を修め,平氏の信任を得て,平重盛の六女,重子姫を娶りしが,之が因となり鎌倉勢に攻められ,山塞の砦を雨鳴山に築き防戦したが戦い利あらず,文治元年(1185年)十月十一日未明雨鳴城にて自害した。
 越えて建久八年十月十一日,光朝の十三回忌に光朝の子,光経は,母重子(禅定比丘尼)と共に近郷の高僧を招き大法要を営み,この際に経文を修めた経筒を一筒は館跡(熊野神社)に埋設し,一筒は光昌寺に埋設したものであるが,後年改修の折にニ筒とも発掘された。
    (秋山旧事記及び部落代々の伝説より)

 修められた経文は既にその原形を留めていないが,唐金鋳造製の経筒は完全な形であり,刻まれた文字は今も明瞭に判読出来る。

 経筒は秋山部落の秋山富士夫氏宅に保存されており,当時のものして唯一の貴重な資料である。

  経筒の刻字
    信心大施主  源朝臣光経
    芳縁源氏   所生愛子等
    現在悲母   禅定比丘尼
        建久八年十月十一日

   平成二十年十二月吉日
     秋山区
     秋山太郎光朝公奉賛会
     南アルプス市教育委員会

(関連項目) 甲斐源氏発祥の地
撮影日
2012年5月 (写真提供 T.K.さん)
碑文[1]
甲斐源氏 秋山家発祥之地

     光朝公七八五回忌
  伊豫西條市 二十三代 秋山英一
  讃岐高松市 二十九代 秋山仁平
 寒きびし 血のつながれる 甲斐源氏   発起者一同
         昭和五十四年秋

 
甲斐源氏・秋山家発祥之地 碑 秋山太郎光朝公 館跡 碑
甲斐源氏・秋山家発祥之地 碑
秋山太郎光朝公 館跡 碑

秋山太郎光朝公廟
秋山太郎光朝公廟