発祥の地bannar
甲斐武田氏発祥の地
 [かいたけだしはっしょうのち]


場所
茨城県ひたちなか市武田
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ひたちなか海浜鉄道湊線の日工前駅から 南西に約1km。
陸上自衛隊勝田駐屯地の南西隅から 常磐線の線路を挟んで向こう側に湫尾(ぬまお)神社。 その神社の参道入口に 写真に示す石碑と 説明板が建っている。

武田氏といえば 甲斐国の発祥 という印象があるのだが,はるか離れた ひたちなか市(旧・勝田市)が 甲斐武田氏の発祥地とされる経緯は,下記の碑文に詳しく書かれている。しかし “武田信玄の祖先が常陸国の出で そこの地名「武田」をとって姓とした”というのはやや意外の感がある。
武田氏の常陸国発祥説は 1960年代に発表され,現在はこちらの方が定説となっているという。
湫尾神社の裏側には 源義清(武田吉清)が居を構えた“武田氏館”がある。

山梨県に行くと,“甲斐武田氏は武田信義が武田庄(現・韮崎市)に入り 武田姓を名乗ったのが 始まりであり,韮崎が発祥の地”とされているようである。
韮崎市には 平安末期に信義が居を構え 武田氏を名乗ったという“武田信義館跡”がある。

撮影日
2004年11月 (写真提供 M.D.さん)
碑文
甲斐武田氏発祥の地
  平成二年二月
    勝田市教育委員会

(説明板)
    名将信玄を出した甲斐武田氏発祥の地
 源頼義の長子八幡太郎義家の弟新羅三郎義光は,後三年の役(1083〜 1087)に際し兄義家軍への参加や,常陸介に任ぜられて東国常陸への赴任を 通して,早くから在地勢力と提携し,常陸大掾(たいじょう)平氏と縁戚関係を結んで,常陸進出の野望を着々と実現していった。義光には,義業(よしなり),実光,義清,盛義(もりよし),親義(ちかよし)らの数子があったが,まず,長子義業を,常陸国久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に土着させ常陸進出の拠点とした。
 一方,三男の義清を,常陸国吉田郡武田郷(野田市武田)に配して勢力の扶 植をはかった。ここが甲斐武田発祥の地である。
 義清は刑部三郎と称し,武田郷の地名をとって初めて武田氏を名乗り武田冠 者と呼ばれた。 この義清が甲斐武田氏の始祖となったのである。
 「武田系図」によると,義清は上野介源兼宗の女を妻とし清光をもうけてい る。『長秋記』によれば,大治五年(1130)十二月三十日の条に「常陸国 司,住人清光濫行の事などを申すなり,子細目録に見ゆ」と記されている。 十二世紀初めの武田郷周辺の地は在地豪族の間で互いに勢力を張り合っていた が勢力拡張をあせる義清,清光父子にゆき過ぎの行為があった。
 そのため吉田郡地方に隠然たる勢力をもつ常陸大掾の族吉田清幹(きよもと)らに疎外され「清光濫行」として告発された。その結果,義清,清光父子は告発された直 後,甲斐国市河庄に配流となった。
 義清の曾祖父頼信,祖父頼義,父義光と三代にわたって甲斐守に任ぜられ, 清和源氏と甲斐とは密接な関係にあった父祖ゆかりの地に土着し,新天地を開 いて甲斐源氏発展の基盤を築いた。
 名将武田信玄は義清から十八代目にあたる。

武田氏略系図 (一部省略)
      義光─┬─義行──昌義──隆義──義重……
         │  (佐竹)
         ├─実光
         │  (武田)
         └─義清──────清光──信義……晴信(信玄)……

     勝田市・勝田市教育委員会

甲斐武田氏発祥の地碑 武田氏館
甲斐武田氏発祥の地 碑
武田氏館