渡し碑コレクション
竹屋の渡し  [たけやのわたし] 


場所
東京都台東区浅草7丁目
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言問橋と桜橋の ほぼ中間, 隅田公園を 200mほど北に入った, 台東スポーツセンター手前の広場の片隅に この碑が建っている。 山の宿の渡しと雰囲気の似た 自然石の碑である。

当時の渡し船は, 当然のことながら 時刻表があって運行していたわけではなく, 客が集まれば 適宜 舟を出していた。舟が対岸に行っている時は 大声で呼び寄せたものらしい。 一説によると, 船宿「竹屋」の女主人が 150m先の対岸の舟を呼ぶ「タケヤー!」 の美声が有名だったという。

言問橋は, 関東大震災後の 昭和3年に架けられた 桁橋で, ほとんど装飾がなくよく言えば すっきりした容姿の橋, 悪く言えば あまり面白くない橋。

“言問”という橋の名前は, 在原業平の「名にしおわば,いざ言問わん・・・」 に由来する。

撮影日
2002年3月
碑文
竹屋の渡し跡          台東区台東区浅草7丁目 隅田公園

 隅田川にあった渡し船の一つ。山谷堀から 向島三囲神社 (墨田区向島2丁目) の前 あたりとを結んでいた。
 『待乳の渡し』ともいい, また『竹屋の渡し』とも云う。 明治40年刊の『東京案内』には『竹屋の渡』とあり, 同年発行の 『東京市浅草全図』では, 山谷堀入口南側から対岸へ船路を描き 『待乳ノ渡,竹家ノ渡トモ云』と記している。
  「渡し」が待乳山聖天の下にあったこと, あるいは, 山谷堀に竹屋(家)という船宿があったことが その名の由来とされている。
  「渡し」の創設年代は不明であるが, 文政年間 (1818-30) の地図には, 「今戸はし」のそばに「竹屋のわたし」の名が見られる。
 隅田川にのぞんだ 今戸や 橋場一帯は 風光明媚な地であったという。 文人墨客たちの題材ともなった 今戸橋や山谷堀は, 寛文11年(1671)の地図に, 今戸橋の名があることから, 江戸時代初期には造られていたらしい。 「渡し」は, 昭和の初期, 言問橋が架橋される頃まであった。

             平成6年3月  台東区教育委員会

竹屋の渡し跡 「竹屋の渡し跡」碑

竹屋の渡し  

 言問橋