豆相人車鉄道

[2005-09-21]


復元人車
湯河原温泉に近い 和菓子店「味楽庵」の店先に, 電話ボックス あるいは 公衆トイレかとも 思わせる 不思議な形の箱が展示されている。緑色の4本の足(展示物を固定するための足)が あるためわかりにくいが,下にはレールが敷かれていて 4つの小さな車輪もついている。
横に掲げられた説明板には 次のように書かれている。

    豆相人車
明治29年にできた人車鉄道は, 乗客3〜6名と これを押す者(車丁)3名の人力で10年間走り 多くの話題を残した。 この人車は当時の形状をそのまま復元しました
「人車鉄道」とは, 動力をもたない客車を人力で押して輸送する鉄道で, 簡単に言えば“トロッコ人力鉄道”である。 小田原〜熱海間に『豆相人車鉄道』が開通したのは 明治29(1896)年のこと。
「豆相(ずそう)」 は 「伊豆国(熱海) と 相模国(小田原)を結ぶ鉄道」に由来する。

人車の中に入ってみると 非常に狭い。向かい合わせ2列の座席に座ると, 前の人と 膝がぶつかってしまう。足の長い現代人には 到底耐えられないほどの狭さである。
上・中・下の等級があって, 下等の定員は6名というから, 膝をぶつけ 肩をこすり合いながら 乗っていたのだろう。 軌間(レールの間隔)は 660mm, 車体は 幅1.5m x 長さ1.62mと小さく, おもちゃみたいな“鉄道”である。


明治5年, 新橋〜横浜間に初めての鉄道が開業して以来, 東海道線は どんどん西に延長され, 明治22年に 新橋〜神戸間が全通した。しかし“天下の険”箱根の山を越えることは できなかったため, 国府津から大きく北に迂回して沼津まで通るルート (= 現在の御殿場線) が選ばれた。

一方 熱海は古くから鄙びた温泉地として知られており, 政財界の大物や文人などが多数訪れた。 しかし 熱海へのアクセスは非常に悪く, 東京から人力車でも 2日がかりという不便さだった。

熱海には 「市外電話創始の地」の碑が建っている。 政治家や政府高官が多数 保養や会談のため熱海に来たので 東京との連絡が非常に多く, そのため特別に 東京との間に電話回線が敷かれ 明治22年1月に開通したものである。
熱海に一ヶ所, 東京に一ヶ所の電話機があって, 呼出手数料と通話料をとって 公衆電話として 開通した。(ちなみに 東京で 一般の加入電話の業務が開始されたのは, その翌年 明治23年のことである。)
豆相人車 路線図
(地図をクリックすると
拡大図を表示)
東海道線が国府津まで開通すると 熱海へも鉄道を引く機運が高まり, 小田原から熱海まで鉄道が敷設されることになった。

国府津〜小田原間には鉄道馬車が敷設されたが, 小田原〜熱海間の約25キロは, 途中の路線が ほとんど 坂道と急カーブが続く海岸線コースになるため, 鉄道馬車では無理と判断され, また 蒸気機関車を使った軽便鉄道は 開発投資が大きく採算が合わないという理由で, 人車鉄道が適当と判断されたらしい。

当時人車鉄道は各地に開通したが, 有名なものは「寅さん」で知られる 柴又の帝釈天と金町との間(1.2キロ)などがある。

小田原から熱海までおよそ4時間かかり, 途中9ヶ所に駅があった。
急坂にかかると 人力では押して上ることができなくなり, 乗客に降りてもらって, 時には乗客にも一緒に押してもらって上ったという。下り坂では 車丁はステップにとび乗り ブレーキ操作をしながら一気に下って行った。

線路は かなりお粗末なものだったようで, 頻繁に脱線があった。 明治39年には 2台の人車が脱線転覆して 乗客7名が怪我をして入院したという。 乗り心地も悪く 評判はイマイチだったらしい。
それでも, 大正天皇が皇太子時代に熱海に行啓された際に, この人車鉄道を利用したという 記録もあるという。

下の写真は 明治30年ごろの豆相人車鉄道 (「味楽庵」前の 復元人車 の横に掲示されていた)。 3両の人車を それぞれ 2〜3人の車丁が押しているのが見られる。 運行中の人車

余談になるが, 明治時代の作家が何人か この豆相人車を作品中で取り上げている。
たとえば 国木田独歩の『湯河原ゆき』には 「人車には一驚を喫した。 実に乙なもの 変てこなもの」 とあり, また 坪内逍遥の『熱海と五十名家』には 「私達夫婦は人車鉄道という無鉄砲なものに 前後六回ほど乗った。・・・時には脱線して大怪我をしたという噂を屡々聞いた」 と書かれている。
芥川龍之介『トロッコ』には, 人車鉄道を軽便鉄道にするため レール間隔を広げる工事をしている様子などが書かれている。
尾崎紅葉の『金色夜叉』は 明治30年から6年間掲載された新聞小説だが, 主人公 貫一・お宮の二人は 時期的に考えて, 当然 人車鉄道で熱海に行ったのだろう。

この当時 人車鉄道を運行する会社は 全国に10社以上あったというが, いずれも経営は苦しく 赤字の会社が多かった。 豆相人車鉄道も 赤字にはならなかったものの 順調とは言えなかった。 乗客6名に対して車丁が3人というから あまりに人件費がかかりすぎ, また 時間もかかって 遅すぎるため, かなり早い時期から 軽便鉄道に切り換えが検討されていた。

蒸気機関車を使った軽便鉄道になったのは, 12年後の明治41年のことで, 軌間は 660mm から 762mmに変更された。
その後 大正9年になって, この軽便鉄道と並行して 国鉄・熱海線の工事が開始され, 路線が競合することが明らかになったため, 軽便鉄道の権利を国鉄に譲渡し 当面の運行はそのまま続けられた。
しかし 大正12年の関東大震災によって 線路が壊滅的な被害を受け, 結局 軽便鉄道は復活することなく廃業となった。

国鉄熱海線(国府津〜熱海)が全通したのは 大正14年, 丹那トンネルが開通して 東海道線が熱海を通るようになったのは 昭和9年のことである。

現在, 人車鉄道時代の小田原駅跡と熱海駅跡には 記念碑が建っている。

小田原駅跡の碑は, JR 小田原駅の約1km南, 国道1号線が東海道線と交差する “早川口”交差点の近くにある。

  人車鉄道 軽便鉄道
    小田原駅跡

 明治29年3月 熱海方面への陸上輸送路として豆相人車鉄道が開設さ れ 早川口が小田原駅となった。明治41年に軽便鉄道とし,小田原電鉄 からの乗換駅として,この地方の交通に恩恵をあたえた。大正11年12月 国鉄熱海線が真鶴まで開通したことによって その任務を全うした。

人車鉄道の熱海駅跡の碑は, JR熱海駅から南西に約500m, “南明ホテル”の玄関前にある。
乗客の乗った人車を 3人の車丁が押している, 凝ったデザインの石碑である。
  豆相人車鉄道

「豆相人車鉄道」は雨宮啓次郎氏と, 地元の有志20余名の努力によっ て, 明治29年(1896)3月, 熱海-小田原間(25km)全線が開通した。 所要時間は4時間ほどであった。この人車鉄道は定員6名あるいは 8名の客車を3名の人夫が押すという, きわめて原始的なものであ った。明治29年当時の運賃は熱海から小田原まで, 下等40銭, 中等 60銭, 上等1円, 3歳未満は無料, 10歳未満は半額というものであ った。
「豆相人車鉄道」は日本最初のもので, 明治40年(1907)12月, 軽便鉄 道にかわるまでの12年間, 貴重な交通として利用された。


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