時の鐘

[2005-06-11]


石町 時の鐘
東京日本橋。地下鉄日比谷線の小伝馬町駅近くに“十思(じっし)公園”という小公園がある。 この辺り一帯は かつて江戸時代に「伝馬町牢屋敷」と「処刑場」があった場所である。
公園へ行ってすぐに目につくのが 写真の鐘楼。 ずいぶんモダンな造りだが, ここにある鐘は 江戸時代の「時の鐘」である。

「時の鐘」とは, 時計が普及していなかった時代に 市民に時刻を知らせるために設置された。 当初 江戸城内にあったものを, 1626年(徳川家光の時代)に 日本橋石町に鐘楼堂を造ったのが「時の鐘」の最初とされる。
地下鉄駅近くの説明板には 次のように書かれている。

  石町 時の鐘
江戸時代当初の時の鐘で 初め江戸城にあり 二代将軍秀忠の時是を 石町に移し 地元四百十町より集めた鐘楼銭で維持され 幕末まで石町時の鐘と して親しまれた 鐘楼櫓下では蕪村等が夜半亭と号して俳諧の集ひをしていた事は 有名である 伝馬町牢に於ける処刑時もこの鐘を合図に執行されたが 定時に鳴る べき鐘が 処刑者の延命を祈るが如く その都度遅れたとあって 一名情けの鐘とも伝へ らる 現鐘は旧楼焼損後 宝永八年に改鋳したもので 銘に宝永辛卯四月中 浣鋳物師大工椎名伊予藤原重休とある 昭和五年九月 石町宝永時鐘々 楼建設会に依り十思公園に移され 廿八年十一月都重宝に指定さる

江戸時代の日本では 日の出を「明け六つ」日没を「暮六つ」と決め, その間を6等分ずつして一刻(いっとき)とし, 1日を12刻(とき)に分けていた。 「明六つ」から2時間ごとに「五つ」・・・「九つ」・・・「暮六つ」となる。 夜間も同様。
一刻はおよそ2時間だが, 基準が“日の出”“日の入り”だから 当然夏と冬でその時間が変わる。これを「不定時法」と呼ぶが, 季節によって 時間が伸びたり縮んだりするため, 一日を24時間とする時計が示す 現代の時刻の定義とは合わない。

事実, 江戸時代には 西洋から時計が入っていたが ほとんど実用にはならなかったといわれる。 しかし器用な日本人は これを改造して, 不定時法を取り入れた“和時計”を発明している。
時の鐘は このような和時計や 水時計(漏刻), 香を燃やして時を測る「定香盤」 などを用いて時間を測って撞いていた。 もちろん 現代から見れば 時間の精度はかなり劣っていただろうが, 当時の生活は 5分や10分を争うような せかせかした生活はしなかったのだろう。

時の鐘の知らせる時刻の精度については, 上記の「情けの鐘」の他にも面白い話が残っている。
江戸城に勤務する役人(つまり武士)は 八つ(8時ごろ)に一斉に登城する決まりになっていたが, 城から遠い 四ツ谷・新宿付近からだと時間がかかったため, 四ツ谷・天龍寺の時の鐘は 本来の時刻より30分早く鳴らしたと言われる。

で, 鐘の撞き方だが,「六つ」は6回, 「五つ」は5回撞くのかと思えば さにあらず。 本番前に3回「捨て鐘」というものを撞くので, 「六つ」には9回 「五つ」には8回撞いたという。 これを夜中も含めて 一日12回もやったのだから, 近所の人は相当うるさかったことだろうし, 撞く人も大変だったろう。
その運営費は「時銭」とか「鐘楼銭」と呼ばれる費用を住民から徴収していたそうで, 鐘の音が聞こえる 半径2〜3キロの範囲内で 家一軒につき月に4文ずつ (武家屋敷などはもっと高い料金)を集めて, 鐘役の報酬に充てていた。

ちなみに,当時「時銭」を徴収した記録によると,日本橋を中心として 東は隅田川まで, 西は麹町, 北は本郷, 南は浜松町あたりに及んでいて, ほぼ半径2〜3kmの範囲だったらしい。現代であれば 2〜3km離れた場所で鐘が鳴っても 到底聞こえるとは思えないが, 当時はいかに静かな環境だったか想像できる。

江戸の町には 日本橋・上野・浅草 の他に, 本所・芝・市ヶ谷・目黒・赤坂・四ッ谷・目白 の 合計10か所に 幕府公認の「時の鐘」があって, ほぼ江戸全域で鐘の音が聞こえた。 (時代によって この他にも数か所に鐘があったらしい。)
時の鐘は 明治になって廃止されたが, 日本橋・上野・浅草・四ツ谷・目黒5つの鐘は 今も残っていて, それぞれに鐘の音を聞くことができる。

  花の雲 鐘は上野か 浅草か  (芭蕉)

という句にもあるように 浅草と上野の鐘は有名だが, これらはいずれも幕府公認の「時の鐘」だった。
上野の鐘は 上野公園の中の精養軒の入口に 赤い鐘楼に吊り下げられている。 今日も手動で 朝夕6時と正午の3回 撞き続けられている。

    時の鐘    (一部略)
 初代の鐘は, 寛文6年(1666)の鋳造。銘に「願主 柏木好古」とあったという。その後, 天明7年(1787) に, 谷中感応寺(現・天王寺)で鋳直されたものが, 現存の鐘 である。正面に「東叡山大銅鐘」, 反対側には「天明七丁未 歳八月」, 下に「如来常住, 無有変易, 一切衆生, 悉有仏性」と 刻まれている。
 現在も鐘楼を守る人によって, 朝夕6時と正午の3回, 昔ながらの音色を響かせている。
なお, 平成8年6月, 環境庁の「残したい日本の音風景 100選」に選ばれた。
     平成8年7月    台東区教育委員会
上野 時の鐘

浅草の鐘は 浅草寺の境内, “弁天山”と呼ばれる小高い丘の上にある。 普通浅草寺に行くと 参道・本堂・五重塔などを見ることが多いが, 境内の東の端にある 弁天山は あまり知られておらず, 比較的参詣者も観光客も少ない。
この鐘は 現在は浅草寺の梵鐘として使われているらしい。ちなみに“梵鐘”は 僧侶が勤行をする時間を知らせる合図の鐘で, 多くは 朝晩と正午の3回撞かれる。 寺によっては日に6回撞くところもあるという。

   時の鐘(浅草寺)     (一部略)
 鐘の大きさは, 高さ2.12メートル, 直径1.52メートル。
 鐘銘によれば, 撰文は浅草寺別当権僧正宣存で, 元禄5年(1692)8月, 5代將軍徳川綱吉の命により, 深川住の 太田近江大掾藤原正次が改鋳し, その費用として下総(現 千葉県)関宿藩主牧野備後守成貞が黄金二百両を寄進した。
 この鐘は, 時の鐘として, あるいは浅草寺の梵鐘として, さまざまな文学作品にも登場している。
 昭和20年3月の東京大空襲で火を浴びたが無事に残り, 今なお昔のままの姿を見せている。なお, 鐘楼は同空襲で焼 け落ち, 昭和25年5月再建されたものである。
   平成11年3月   台東区教育委員会

浅草 時の鐘

なお, 時の鐘は江戸だけでなく, 全国各地にあった。というより ほとんどすべての城には 時を知らせる手段 (鐘 あるいは 太鼓など)があったに違いない。
現代に残っているもので有名なものは, 埼玉県川越・長野県松代などの時の鐘。 また“時の太鼓”として残っているところとしては, 長野県松本城・兵庫県明石城など かなりの数がある。
現代に残されている鐘や太鼓は, 毎日定時に 電動で自動的に叩かれているものが多いようだ。


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