発祥の地bannar
吉川氏発祥の旧跡
 [きっかわしはっしょうのきゅうせき]


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場所
静岡市清水区吉川
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静岡鉄道・静岡清水線の狐ヶ崎駅から北に1.5km。
小糸製作所吉川工場(休業中)の北にこんもりと樹木が繁った一画がある。ここは吉川家の墓地で,ここに「吉川氏発祥の旧跡碑」という石碑と「吉川氏の墳墓」と書かれた説明板が建っている。

戦国時代の毛利元就の次男・元春が養子に行ったことで知られる安芸の吉川家は,ここ駿河の吉川の地から出ている。

駿河国にあった入江景義の子・経義は入江庄吉河村に居住し 初めて吉川を称した(初代)。2代友兼は鎌倉時代の初め 梶原景時が謀反を起こし京都に向かう途中,駿河の狐ケ崎でこれを討ちとった(狐ヶ崎合戦)。この功績により 3代朝経は播磨国福井庄の地頭職に補任された。4代経光は“承久の乱”で北条氏に属して勲功をあげ,安芸国大朝本庄の地頭職に補任された。駿河・播磨・安芸に地頭職を得て勢力を充実拡大させたが,遠隔地にある安芸の領地を治めることは容易ではないため,1313(正和2)年に 安芸の大朝本庄へ移住した。
戦国時代になり,毛利氏が大内氏と敵対関係になった時,吉川氏は大内方になったり毛利寄りになったりしたため,毛利元就は14代興経を引退させ 自分の子・元春を養子として送り込み,吉川氏は毛利一族となった。
1600(慶長5)年“関ヶ原の戦”において,毛利輝元は西軍の盟主になったが,家康の勝利を予測した17代・広家は家康によしみを通じ,その結果 岩国3万7千石を与えられ 長く続いた。

この地は かつての吉川氏館跡で,西・東・南に堀を設けた単郭式の方形館であったと伝えられる。しかし現在は全く旧態を残しておらず,ただ 周辺に四散していた墳墓を一つにまとめたものがあるのみである。

撮影日
2012年4月
碑文
吉川氏発祥の旧跡碑
  清水市吉川を中心とする一帯の
  地方は旧岩国藩主吉川氏の初代
  経義より友兼朝経経光経高に至る
  五代百二十八年間の旧跡地である
    昭和三十三年六月
      岩国市史編纂所長
        文学博士 瀬川秀雄誌

  吉川氏第三十一代の当主吉川重喜建之

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(説明板)
     「吉川氏の墳墓」
 昭和十八年,吉川子爵家が第一代吉川経義の七百五十年祭記念して築造したのがこの墳墓である。ここ吉川の地は,武士として,また,戦国の世で活躍した吉川氏発祥の地でありその由来は,吉川八幡神社の鳥居に詳しく記されている。
 吉川氏の墳墓は,古くからオコリボタと称され,この付近に住む人びとにとって神聖視され,入ることの許されない禁制の場所であった。四代にわたる墳墓が分散していたことから,一個所に統合したものであある。
 第一代経義は寿永二年(1183)源頼朝から吉川の地を安堵され,第2代友兼は,梶原一族を狐が崎の合戦(1200)で討った功績によって,第三代朝径に播磨国福井庄(兵庫県姫路市)を賜り,第四代径光は,承久の乱(1221)の戦功によって,安芸国大朝庄(広島県山県郡大朝町)の地頭職に任命された。第五代経高は,ここ吉川の地よりそれぞれの地方を支配したが,正和二年(1313)この地を離れて大朝庄に移住した。
 戦国末期,毛利元就二男元春は吉川家を継ぎ,小早川氏と共に毛利家の支柱となり,「三本の矢」の逸話はあまりにも有名である。その子広家は関が原の合戦(1600)で東,西軍の間で苦心折衝,その功によって,徳川家康より周防国岩国六万石の城主に任じられた。岩国藩第三代藩主吉川広高は,名勝「錦帯橋」を築造し,今では全国から数多くの見学者が訪れている。
 ちなみに,吉川友兼が梶原景重茂と清水市のこの地の戦いで使用した青江為次作の名刀「狐が崎丸」は,国宝として岩国市の吉川資料館に展示,公開されている。
    平成十三年(2001)三月
      岩国吉川家 第十六代当主 吉川重幹
      有度まちづくり推進委員会
      吉川自治会
      清水西ロータリークラブ

 
吉川氏発祥の旧跡碑
吉川氏発祥の旧跡碑
説明板「吉川氏の墳墓」
説明板「吉川氏の墳墓」


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