渡し碑コレクション
釜屋の渡し跡  [かまやのわたしあと] 


場所
東京都江東区北砂1丁目
コメント
(2005.8 書替)
都営地下鉄・西大島駅の南 約500m。小名木川沿いの“北砂緑道公園”に 面して 写真に示す碑が建っている。
碑には写真がついているが, 風雨にさらされたためか ほとんど判別できない 状態になっている。

小名木川の北側を通る道路は“釜屋堀通り”と名付けられ, また この通りに面した 大島橋の脇には“釜屋堀公園”があって, ここには“釜屋跡”の碑も建っているなど, この付近に かなり規模の大きい 釜屋の鋳物工場があったことを示している。

  釜屋跡
太田氏釜屋六右衛門と田中氏釜屋七右衛門は通称釜六 釜七と称し 寛永十七年今の滋賀県から港区にきてまも なくこの付近に住い 釜六は明治時代まで 釜七は大正時 代まで代々鋳物業を盛大に続けて知られ なべかまの日 用品をはじめ ぼん鐘仏像天水おけなどを鋳造した
      昭和33年10月1日   江東区第十九号
撮影日
2005年11月
碑文
釜屋の渡し跡   (大島1-18〜北砂1-3)

 釜屋の渡しは, 上大島村(大島1)と八右衛門新田(北砂1)を結び, 小名木川を往復していました。名称は, この対岸に 江戸時代から続く鋳物師, 釜屋六右衛門・釜屋七右衛門の鋳 造所があたことにちなみます。写真は明治末ごろの釜屋の ようすです。川沿いに建ち並ぶ鋳物工場と, そこで働く人びと や製品の大釜が写っています。
 明治の初めごろにはすでに, 対岸の農耕地などへ往来する 「作場渡し」に類する「弥兵衛の渡」がありました。「大島町誌」 (昭和7年刊行)によれば, 大正7(1518)年7月5日に 「営業渡船」として許可されています。利用状況は, 平均して 1日大人200人, 自転車5台, 荷車1台で, 料金は1人1銭, 小 車1銭, 自転車1銭, 荷車2銭, 牛馬1頭2銭とあります。
 「城東区史稿」(昭和17年刊行) には営業の記載があるので, それ 以後に廃止されたものと思われま す。
    平成9年3月
          江東区教育委員会

釜屋の渡し跡碑 釜屋跡 碑
釜屋の渡し跡 碑
釜屋跡 碑