戸田の渡し [とだのわたし]
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場所 |
神奈川県海老名市門沢橋 (および)
神奈川県厚木市戸田
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コメント |
相模川には 最盛期には 60ヵ所近い 渡し があったと言われるが,
現在も その跡が残っているのは 数少なくなっている。
JR相模線の門沢橋駅から 西に向かうと 戸沢橋 がある。この橋の両側に
いくつかの 「戸田の渡し」碑がある。
- 戸沢橋の東側 (海老名市側)。戸沢橋の手前の信号を 左(南)に曲がると,
200m程先の 道路の真ん中に 道路を半分塞ぐような形で, 大きな木が一本と
道祖神(?)が 木の柵に囲まれて建っている。
その脇に 海老名市教育委員会が建てた 「戸田の渡し跡」の説明板がある。
(写真 左上)
- 戸沢橋を 厚木市側に渡ると, 戸沢橋西端の親柱に 説明文が刻まれている。
橋の管理者 (国土交通省?) が作ったものであろう。(写真 右上)
- 戸沢橋の西側 (厚木市側) から 堤防上の道を 南に入ってすぐ,
50cmぐらいの 石杭に 簡単な説明が書かれている。
厚木市が建てたもの。(写真 左下)
- 相模川の西岸の堤防上を 200〜300m南に進むと,
土手上に 非常に立派な 渡し碑が建っている。(写真 右下)
- 更にもう一つ, 戸沢橋から 県道を西に進んだあたりにも,
石碑が建っているという情報があるが, 詳細は未確認。
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撮影日
| 2003年2月
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碑文 (1)
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戸田の渡し跡 〈海老名市 (戸沢橋東側) の碑〉
市南部の本郷から門沢橋にぬける大山道は, 「柏尾道」ともいわれ,
往時 門沢橋付近で「戸田の渡し」により 相模川を渡船した。
「戸田の渡し」では船二隻を常備していた。門沢橋は, かつて旅籠, 茶屋などがあり
賑わいのある宿場であった。
また, 安藤広重もこの地を訪れ, 「相州大山道中戸田の渡し」の浮世絵を製作している。
平成4年3月13日 海老名市教育委員会
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碑文 (2)
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戸田の渡し 〈戸沢橋 西の親柱〉
この渡しは大山道の一部であり 江戸の昔より 戸田村と門沢橋村のあいだ
渡し巾百十メートルほどを 庶民の足 また物資の輸送用として
明治の末まで盛んに用いられた
昭和59年2月 厚木市
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碑文 (3)
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戸田の渡し 〈戸沢橋 西側の 小さな石碑〉
柏尾村(横浜市戸塚区)から 長後を経て 船で相模川を渡り 戸田村へ入り,
下糟屋を過ぎ 大山に至る 大山参詣柏尾道の要衝で,
戸田・門沢橋二村の経営であった。
安藤広重はここで「相州大山道中戸田川之渡」を書いている。
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碑文 (4)
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戸田の渡し 〈西岸 土手上の立派な石碑〉
相模風土記稿に 源頼朝の妻政子が,
大山の不動尊や 日向薬師に安産の祈願をした という記述があることから,
この戸田の渡しは, 鎌倉時代にはすでに 武家の大山詣りや 米の運び道として利用されていた
と推察される。この渡しは, 用田・長後方面から 下津古久・落合を通り大山へ通ずる
大山参詣柏尾道の要衝であり, 江戸時代の有名な浮世絵師の 歌川(安藤)広重によって画かれた
「相州大山道中戸田川之渡」には, 多くの人々が この渡しを利用している当時の様子が 窺える。
戸田村と門沢橋村の両村が 船二艘で経営した 戸田の渡しは,
川が氾濫する度に 渡船場の位置が変わったが 明治の末まで盛んに利用された。
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