渡し碑コレクション
月島の渡し跡  [つきしまのわたしあと] 


場所
東京都中央区月島3丁目
コメント
地下鉄・月島駅の西 400m。
月島の もんじゃ焼きの店が建ち並ぶ“西仲通り”(通称“もんじゃ通り”)から 100m北側の “西河岸通り”に面して, 「わたし児童遊園」がある。 この公園中に「月島の渡し跡」という説明板が設置されている。

「わたし児童遊園」という名称は, 「ぼくとわたし」の「わたし」かと思っていたが, どうやらそうではなくて「渡し公園」から来ているようで, この「渡し碑」があるから この名がついたものであろう。

隅田川の河口には, 「佃島」「月島」「勝どき」「豊海」と 島が並んでいる。 いずれも隅田川河口の埋立地で, 佃島は江戸時代に, 月島は 明治20年代に完成している。
佃・月島・勝どき の島は, 互いにかなり近接しているにも関わらず, それぞれに渡し船が通っていたのは, それだけ交通量が多かったのだろう。
「月島の渡し」は, この公園と 対岸の 聖路加ガーデン付近を結んでいた渡しで, 明治25年ごろから 昭和15年ごろまで, およそ50年間運航された。

コメント
(2012/1 追加)
“わたし児童遊園”の対岸(“あかつき公園”の南)にも,「月島の渡し」の標識がある。
月島側の標識より7年後に設置され,説明文の内容は,前半は全く同じ,後半は少し情報が追加されている。
撮影日
2007年3月,2009年11月
碑文(月島側)
月島の渡し跡
      所在地 中央区月島三丁目二四 わたし公園

 「月島の渡し」は, 月島一号地の埋立が完成して間もない明治二十五年(1892)十一月, 土木請負業の鈴木由三郎が, 南飯田町(現, 明石町十四)から月島(現, 月島三丁目)へ, 手漕ぎの船で私設の有料渡船をはじめたことにはじまるといいます(『月島発展史』)。明治三十四年(1901), 月島への交通の重要性を考慮した東京市が市営化を決め, 翌三十五年, 汽船曳船二隻で交互運転を開始し, 渡賃も無料となりました。月島は東京の臨海工業地帯として発展し, 明治四十四年には,乗客の増加に対応するために徹夜渡船が開始されました。
 その後, 昭和十五年(1940)には勝鬨橋が架橋され, 渡船の利用者は減少の一途をたどり, 月島の渡しは廃止されることとなりました。
  平成十三年三月
          中央区教育委員会

碑文(築地側)
(2012/1 追加)
月島の渡し跡
       所在地 中央区築地七丁目18番
               明石町14番 地域
 「月島の渡し」は, 月島一号地の埋立が完成して間もない明治二十五年(1892)十一月, 土木請負業の鈴木由三郎が, 南飯田町(現在の築地七丁目18番)から月島(現, 月島三丁目24番)へ, 手漕ぎの船で私設の有料渡船を開始したことに始まります 明治三十四年(1901), 月島への交通の重要性を考慮した東京市が渡船の市営化を決め, 翌三十五年に汽船曳舟二隻で交互運転を開始し, 渡賃も無料となりました。明治四十四年には,臨海工業地帯へとして発展した月島への乗客増加に対応するため,徹夜渡船も開始されました。
 月島の渡しの渡船場は,当初,明石橋橋詰の南飯田町にありましたが,東京市に移管されて運営が開始される明治三十五年以降は,明石町(現在の明石町14番)に渡船場を移設し,大いに利用されてきました。
 昭和十五年(1940)に勝鬨橋が架橋されたことにより,渡船の運航に終止符が打たれましたが,明治から昭和にいたるまで住民や工場へ通う人々の重要な交通機関として活躍しました。
 月島の渡しは,月島工業地帯の発展,ひいては日本の近代化に寄与した渡船として語り継がれています。
   平成二十年三月
           中央区教育委員会

月島の渡し跡碑 わたし児童遊園
月島の渡し跡 碑 (月島側)
(2007/3撮影)
わたし児童遊園

月島の渡し跡碑
月島の渡し跡 碑 (築地側)
(2009/11撮影)