拝島の渡し [はいじまのわたし]
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場所 |
東京都昭島市拝島町1丁目
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コメント |
JR 昭島駅の南東。国道16号(東京環状)の 拝島橋 の北詰に, 「拝島町4丁目南児童遊園」
がある。公園の国道側の壁面に 昭島市の建てた石碑がある。
国道から大きく下った位置で 見つけにくい。
下記の碑文によると, この渡しは“日光街道”の渡しとなっているが,
常識的に 日光街道は 日本橋から 千住・草加などを通って 日光に行く道のはず。
調べると, 「もう一つの日光街道」があって, 八王子から桐生・足尾を抜けて日光に入る道を
「八王子日光道」とか「日光脇往還」とか, あるいは「千人同心街道」などと
呼んでいたらしい。
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撮影日
| 2002年10月 |
碑文
| 拝島の渡し
拝島橋の上流100メートルほどのところに, その昔, “拝島の渡し”
と呼ばれる 日光街道の渡し場がありました。日光街道は,
江戸時代初期の慶安年間(1648〜52)に, 八王子千人同心が日光勤番に赴く際の
往還路として開かれた公道で, 江戸時代を通じて 上州(群馬県)方面と八王子を結ぶ
重要な街道として機能していました。
この渡しの管理は拝島村によって行われ, 数人の船頭さんが常駐して
随時船を往復させていました。
もっとも, 船を運航したのは春から秋にかけてで,
冬の渇水期には数艘の船を流れに浮かべ,
その上に板を渡した浮き橋に仕立てることもありました。
文久元年(1861)の記録によると, 渡し賃は 平水時が一人24文,
大水のときは割増料金を徴収する, といった定めがありました。
明治時代に入っても, なおさかんに利用され, 昭和10年代には
八王子-川越(埼玉県)間を走る定期バスが, この渡し船を利用して
多摩川を渡ったこともありました。しかし, 明治後期から昭和初期にかけ,
鉄道網・道路網の整備が進み, 拝島の渡しは次第にすたれ,
昭和20年ごろには ほとんど利用されなくなり 仮設の木橋が架けられて,
細々と機能しておりました。
その後, 昭和30年, 拝島橋が開通し, この地は再び重要な渡河地点となって
今日に至っています。
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