2001.1.23 「東照宮」のコメントページを追加しました |
日光東照宮 陽明門 |
日光は “見ざる言わざる・・・”で有名な「三猿」の彫刻や,
左甚五郎作と言われる「眠り猫」など 多くの彫刻があるし,
また多くの著名な建物がある。
私もだいぶ昔に2度ほど 行ったことがあるが, その割には
あまり強い印象が残っていないのは なぜだろう。会社の慰安旅行など
主体性のない旅行だったせいなのか, それとも“俗っぽい観光地”という
先入観で関心を持たなかったせいなのかもしれない。
そもそも 東照宮というのは, 文字通り “東照大権現” つまり 徳川家康 を
神として祀った神社だが, 日光に限らず 日本全国あちこちに存在して,
その数は 500社を超えるといわれる。
広辞苑には こう書かれている。
北海道東照宮 | 北海道函館市 | 弘前東照宮 | 青森県弘前市 |
仙台東照宮 | 仙台市青葉区 | 水戸東照宮 | 茨城県水戸市宮町 |
日光東照宮 | 栃木県日光市山内 | 前橋東照宮 | 群馬県前橋市大手町 |
仙波東照宮 | 川越市小仙波町 | 上野東照宮 | 東京都台東区上野公園 |
芝東照宮 | 東京都港区芝公園 | 久能山東照宮 | 静岡市根古屋 |
松平東照宮 | 愛知県豊田市松平町 | 名古屋東照宮 | 名古屋市中区丸の内 |
和歌山東照宮 | 和歌山市和歌浦西 | 広島東照宮 | 広島市東区二葉の里 |
・ ・ ・ |
要するに 家康に何らかの関係があった場所に 次々と“東照宮”が
造られていったようだ。
ただし当然なことながら, 勝手に造ったわけではなく,
すべて将軍の許可を得ていたものらしい。
徳川御三家のある 水戸・和歌山・松平 などに東照宮が造られたのは
なるほど と思わせるものがあるが,
たとえば 弘前東照宮なんて 家康とどんな関係があるのか
不思議に思われる。これは 津軽藩の藩主が 家康の娘(ただし 養女)満天姫を
正妻にして, 将軍家と親戚関係になったために 特に許されたと言われる。
この度 NHKのドラマに刺激されたこともあって, 日光をはじめとして いくつかの東照宮に行ってきた。 日光東照宮の素晴らしさには 3回目で初めて目が覚めたような気がする。
久能山東照宮 唐門・拝殿 |
拝殿 精細な彫刻や壁画で飾られている |
久能山東照宮 |
静岡市の南, 海岸近くにある久能山には, かつて
武田信玄の勢力が盛んだった時代に築いた「久能山城」があったが,
家康がここに葬られると
2代将軍秀忠は 直ちにここに 権現造りの社殿を造営し,
これが 久能山東照宮となった。
1年後には 日光に分骨されて 家康廟としての中心的存在は
日光に移ってしまったが, 久能山東照宮は そのまま現在の東照宮に
引き継がれている。
江戸時代初期の建築技術の粋を集めて建立した社殿は, 規模は 日光東照宮には及ばないものの, 総漆塗・極彩色の壮麗なもので, 楼門・神楽殿・鐘楼・春日社など 現在でも 13棟の建物が残され, 重要文化財に指定されている。
あまり予備知識もなしに, "東照宮の大部分は日光に移されてしまったのだから たいしたことはあるまい" という先入観で 久能山を訪れたたため, これほど華麗な建造物が残されていたのかと 驚かされた。
久能山という山は 標高200メートル強の それほど高くない山だが,
海岸から 非常に急峻に立ち上がっており,
道路としては 1200段の石段で登る道があるだけである。
自動車道路もない。
隣接する山 (=日本平) から ケーブルカーもあるため, このルートで
訪れる人の方が多いというが 当然だろう。
川越・仙波東照宮 平唐門ごしに 本殿を見る |
仙波東照宮・随身門 |
仙波東照宮(川越) |
家康の一周忌を迎えて, 家康の遺体は 久能山から日光に遷された。 駿河の国を出た葬列は 相模の国を通り, なぜか江戸を通らずに 日光に向かったが, その途中 川越の喜多院で4日間 滞在・休養した。
喜多院は,“東照大権現”という呼び名の発案者でもある
天海僧正が住職を勤めた寺でもあるため ここに立ち寄ったのだろうか。
これを記念して(?) 13年後の1633年に 喜多院の境内に東照宮が建立された。
仙波東照宮は, 随身門・鳥居・拝殿・幣殿・平唐門・瑞垣・本殿からなっており, 日光のようなゴテゴテと飾りたてておらず, 小規模で 質素ながら 美しい朱塗りの建物が並んでいる。
ここは 観光スポットの一つである 喜多院と隣接しているが,
わざわざ東照宮を訪れる人も少なく 静寂で落ち着いた雰囲気である。
日光東照宮・唐門 |
日光・「三猿」の彫刻 |
日光東照宮 |
この当時の日光東照宮の規模は 現在の久能山東照宮と 同程度のものだったらしい。 つまり 当時としてはかなり立派だったものの 建物の大きさや数, 装飾のきめ細かさなどは ソコソコのもので, “日光山に小さい堂を建てる”という家康の遺言に沿ったものだったようだ。
1632年に 将軍が3代家光に代替りすると,
家康を尊敬・信奉する家光は 東照宮はもっと豪華で
きらびやかなものであるべしと, 家康の21回忌を目指して
大規模な改修工事を行った。
1634年11月から翌々年の4月まで 約1年半の年月をかけた
「寛永の大造替」によって, 現在に残されている東照宮の原型が出来上がった。
これだけの規模の社殿群を, しかも膨大な数の彫刻や壁画などを合わせて
1年半という短期間で完成させたというのは 驚くべきことだ。
延べ450万人という膨大な労力と 資材を集められたこと,
さらに 複雑で高度に洗練された建造物を企画・設計できる
優秀な技術者を数多く集めることができたことは,
当時の徳川家の権力・財力がいかに大きかったかを
まざまざと示している。
上野東照宮 唐門越しに 拝殿を見る |
上野東照宮 唐門 (拝殿側から門の内側を見る) |
上野東照宮 |
この場所は 家康の時代 藤堂高虎の屋敷だった所で, ここに東照宮を
作るについて 次のような伝承がある。
『藤堂高虎と天海僧正が 危篤の家康を見舞った際,
「3人一緒に末永く魂鎮まるところを造って欲しい」
と遺言された。』
そこで 藤堂家のあった上野の地に 社殿の造営を行い,
家康の死から10年後に完成した。
現在の社殿は, 3代将軍家光が大規模に造り替えたもの。
社殿の構造は, 日光などと同じ“権現造”で, 手前から拝殿・幣殿
(石の間ともいう)・本殿 で構成されている。
上野東照宮全体の規模は 日光東照宮とは比較にならないが,
社殿前の“唐門”は 金箔に覆われ 精巧な彫刻がほどこされるなど,
東京都内にこんな社殿が 身近に見られるのは 貴重である。
社殿を囲む“透塀(すかしべい)”も 凝った造りだし,
周囲に配置されている 多数の銅の灯籠なども含めて 重要文化財に
指定されている。
また 上野東照宮は 徳川家康の他に,
徳川吉宗・徳川慶喜も 神として祀られている。
神廟 |
日光東照宮も久能山東照宮も 徳川家康の遺骸が埋葬されているから
「神廟」なのだが,
日光・輪王寺の「大猷院」に埋葬されている 徳川家光の廟は「神廟」とは
呼ばれない。家康は 神 であるが, 家光は 神 ではないから。
いずれの廟にも「宝塔」と呼ばれる, 釣り鐘を逆さまにしたような
青銅製の“塔”が置かれており, これは一般の“墓”に相当するものである。
日光の神廟は いずれも聖域とされて, 長い間一般の人間がのぞき見る ことはできなかったが, 日光東照宮の神廟は 1965(昭和40)年に 家康350年忌を記念して 一般公開され, 大猷院の奥の院は 昨年(2000年)に やはり 家光の350年忌を期して 一般に公開された。
3つの宝塔は 写真に見られるように, ほぼ同じような大きさ・形を
しており, 社殿から離れて一段と高い位置である 裏山の上に置かれている。
久能山のものは 苔むして古びているのに対し,
日光東照宮のものは 手入れがよく, 輝いているように見える。
久能山 奥の院 宝塔 | 日光 奥の院 宝塔 | 大猷院 奥の院 宝塔 |