JR花輪線・鹿角花輪駅から西に1.7km。
県道66号線(十二社花輪大湯線)を西に向かうと,尾去沢公民館(市役所尾去沢支所)の200m程北に"山神社"がある。
県道から神社への入口に 写真に示す看板が建っている。
この看板は ここが三つの郷土芸能の発祥地であることを示している。
◆ 大森親山獅子大権現舞
◆ 大直利大太鼓
◆ からめ節・金山踊り
【大森親山獅子大権現舞】
500年前から続いている神楽で,尾去沢鉱山の発見にちなむ次のような伝説がある。
室町時代の 15世紀,尾去沢の西の方から 毎日のように化鳥が現われ田畑を荒らすので,
村人が神に祈願したところ 化鳥の飛来は途絶え,大森山の中腹に化鳥の死骸が見つかった。
その死骸は 左右両翼の長さ13尋(約20m)という巨大な鳥で,胃の中に金・銀・銅などの鉱石が一杯詰まっていた。
付近を探すと 近くに獅子頭の形をした 金鉱石の露頭があり,この場所に鉱山が見つかった。
その後 この鉱山は大いに繁栄したので,この地に「獅子神社」を建立して舞を奉納した。
このときの舞が毎年舞い継がれてきたのが「大森親山獅子大権現舞」である。
しかし 明治初年に出された神仏分離令の影響で舞は中断され,その後一時的に復活したこともあったが,
太平洋戦争のため 全く途絶えてしまった。
戦後 昭和27年に この舞を舞った経験者が健在であることがわかり,
若者達が“大森親山獅子大権現舞保存会”を結成して 昔からの本式の舞を修得することができた。
昭和39年に 秋田県の無形民俗文化財に指定され,NHKの放送や 東北6県北海道の民俗芸能祭に県代表として
参加して好評を博すなど 広く知られるようになった。
現在は毎年 尾去八幡神社の例祭(9月15日)と旧暦の4月8日に八幡神社で披露される。
【大直利大太鼓】
旧尾去沢鉱山に伝わる郷土芸能の太鼓。“大直利大太鼓保存会”があって,
毎年 鉢巻山で供養太鼓打ち込みが行われる。
資料が少ないため 詳しい事情は不明だが,
直利(なおり)とは,品質が高い鉱脈のことを指す。この地では当然 尾去沢鉱山 で発見された
銅などの鉱脈の発見を指していると思われる。栃木県の足尾銅山でも 同じ“直利”という単語が使われている。
大直利(おおなおり)とは,特別に品質が高く 大きい鉱脈を指すのであろう。
したがって「大直利大太鼓」は 特別に優秀な鉱脈を発見したことを祝って(あるいは 鉱脈の発見を祈って)
打ち鳴らした大太鼓が起源になっていると推察される。
【からめ節・金山踊り】
「からめ節金山踊り」は 鹿角市の無形民俗文化財に指定されている。
お座敷唄(あるいは 祝宴の唄)として唄われ,それと共に楽しむ踊りであるが,
かつては 鉱山で働く人達の素朴な作業唄だった。
秋田県地方では“からめる”という単語は“物で打つ”の意味があり,ここから 鉱山関係の言葉として
“鉱石を金槌でたたき砕く”,つまり 鉱石を砕いて選別する作業を指す。
唄は活気に満ちた鉱山の様子を描写し,踊りは 女が槌とザルで選鉱作業の様子を踊ったものである。
作業唄でありながら 猥雑さがなく品格のある唄である。
“尾去沢からめ節保存会”があって,鉱山の守り神である山神社で 毎年5月14〜15日に この踊りが奉納される。
鹿角市の無形文化財に指定されている。
尾去沢は 銅山によって 経済的・文化的に発展した街で,上記のように郷土芸能が多く残されている
のは そのためである。
尾去沢鉱山は 記録が残っているのは 江戸時代になってからであるが,奈良時代の 708(和銅元)年に
開かれたとも伝承されている。
記録があまり残っていないのは,この地域を支配していた領主の隠し財産であっことも関係していると思われる。
明治に入ってから 当時の大蔵卿・井上馨が,南部藩から採掘権を委任されていた鍵屋茂兵衛から
不当に没収して 私有化しようとした,いわゆる「尾去沢銅山事件」が起きている。
(井上は 長州藩の力で逮捕を免れた。)
明治22年に 岩崎家に経営が移り,三菱が開発を行うようになり 大きく発展したが,
銅鉱石が枯渇したことなどにより 昭和53年に 閉山した。
跡地には 選鉱場・大煙突等の遺構が廃墟のように残されていて,土木遺産に指定されている。
一部の坑内や鉱山施設はテーマパーク「マインランド尾去沢」として公開されていたが,
2008年4月より「史跡 尾去沢鉱山」と改称してリニューアルオープンした。